三人はしばらく無言で小さなテーブルを囲んでいた。よく、二人でご飯を食べたテーブル。玄関側に征二、窓側にユイが座ると知らない間に決まっていた。
そして今もその通りに二人は座っているのだが、二人の間に割り入るように俊一が座っている。あぐらをかいて、じっと黙っている。
征二はそんな兄の様子を気にかけているのか、時々視線を部屋中に彷徨わせた。誰かが咳払いをすれば、また妙に気まずい沈黙が続く。
ユイは二人で飲むつもりで買ったウーロン茶を俊一にも渡した。俊一はやはり無言で受け取ると、一口飲んでまた咳払いをした。
母が時折掃除をしに来るのだからゴミが溜まることはないが、ホコリは微かにサイドボードなどに溜まっている。蛍光灯がチカ、と点滅した。もう新しくないようだ。引っ越しの時に池袋のロフトにまでわざわざ出かけて、兄が選んだ壁掛け時計の音だけが聞こえる。
俊一は難しい顔をして腕組みをしているかと思えば、疲れ切った表情で長く息を吐いたりする。
その様子が、征二とユイには自分たちを責められている気がしてならなかった。
重い沈黙はその場にいる全員にとってよからぬものであった。特に、征二にとっては。
そんな空気を破ったのは俊一だった。自分がこの雰囲気の元凶であることはわかっていたから、せめてもの罪滅ぼしのつもりでもあったのだろうか。
「俺は、別に怒っているわけじゃない」
二人はどう反応していいのかわかならかった。
「周囲に迷惑をかけるなとか、心配をかけるなとか言いたいわけでもない」
「……兄さん、よくわからないよ」
「ただ、ちゃんと治療を受けて欲しい。よくなって欲しい。それが一番の願いだ」
ユイはようやく口を開く決心がついた。
「私も願いは同じです。征二さんに、早く良くなって欲しい。だけど、その」
ユイは心底申し訳なさそうに頭を垂れた。
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。私のワガママに、征二さんを付き合わせちゃったんです」
「佐々木さん一人のせいじゃないだろう。そもそもは征二が脱走したのが原因なんだから」
「でも私も、悪かったです、本当に」
「そう」
「あの」
「何?」
「私達のこと、どうか許して下さい。私、本当に、その、私、征二さんが好きなんです。理由なんて、それで十分すぎるじゃないですか」
「……」
俊一は首を力無く横に振った。
「……以前、お話ししたよね? コイツと別れた方が、お互いのためだって」
「はい。確かにその時はそう思いました。思わざるを得なかったって言うか。でも」
「でも?」
「私、色々勉強したんです。僭越なことかもしれないけど、どうしても征二さんが忘れられなかったから」
ユイは別に今日、ここでこの話をするつもりはなかったのだが、流れに乗り話すことにした。
「征二さんの病気のこと。病後のこと。ネットと図書館に通って、調べたんです」
「それで?」
「独学だから自信は無いけど……でも、ちゃんと正しい知識は得たつもりです」
「そうまでして、どうするつもりだったの?」
「許されるなら、あの日、征二さんを見捨てたことを神が許してくれるのなら、もう一度だけ会いたいって思ったんです」
「君はクリスチャン?」
「はい」
俊一はふぅん、と頷いた。
「敬虔だな」
「あの、そういう訳じゃないんです。ただ私、本当に征二さんが好きだから――」
「わかった、佐々木さん、あなたの気持ちはよくわかった。でも、あなたのその情熱で、征二の脱走を幇助したことが許されるわけじゃないんだよ」
「それは本当にすみません。私も征二さんも、浮かれてたんです」
「佐々木さん、どんなことを勉強したの?」
「え?」
「征二のこと、調べてくれたんでしょ」
「ええ、まぁ、本当に独学ですけど……。根気強く治療すれば良くなる病気だって。完治はしないけど寛解すれば、社会生活がちゃんと送れるって」
「じゃあ、佐々木さんは、征二がこのまま病院に戻って治療を続けることには反対じゃないんだね」
「……はい」
ユイは自分の情熱を伝えることで、何か許しを得ようと、罪滅ぼしをしようと思っていたのだろうが、結果的に、俊一の思うとおりに誘導されてしまった。
「だとさ、征二。佐々木さんもお前が病院へ戻った方がいいと」
征二は黙って二人の会話を聞いていたが、ため息混じりに口を開いた。
「……病院にいても、俺はよくならない」
「どうしてそう思うんだ?」
「ユイに会えないから」
それを聞いた俊一はテーブルに肘をついてため息をついた。ユイはますます気まずくなって、身を縮めた。
俊一は、なるべく尋問にならないよう気を使いながら続ける。
「二カ月間は病院にいられたじゃないか。作業療法だってちゃんと参加してたんだろ」
「ああ」
「手紙を読んだよ。病院でもランボォの詩をじっくり読めるじゃないか」
「うん」
「じゃあどうして今日になって……」
俊一は何と続けようか迷ったのだが、他に言葉が見つからなかったのでそのまま口にした。
「……逃げ出したんだ」
「それは」
征二はすぐに反論しようとして、しかし向かい側に座るユイを気にして口をつぐんだ。悩んだ末に、こう告白した。
「俺は、夢を見ていたんだ」
「夢?」
「病院に閉じこめられてからずっと。白衣のユイが、そばにいてくれたと思ってた」
「どういうことだ」
「だから、そういうことだよ。今日気づいてしまったんだ、あの子はユイじゃないって。でも、優しかった」
俊一の脳裏に、一瞬あの小柄な看護師の姿が浮かんだ。
「でも俺は、あそこにいたらダメになってしまう。ユイを守れない」
「いいか」
俊一は諭すと言うより半ば宣告するように言う。
「お前は病気だ」
「違う……」
「病気だから、それを治療するために入院している。これ以上ここで話していても、お前のためにならない」
「あそこに戻れっていうのか?」
「当たり前だ。彼女を守りたいのなら、まず自分が元気にならなきゃダメだろ?」
「時間がない」
「学校のことなら気にするな。何とでもなる。今はとにかく――」
「俺はまだ奴らを殲滅していない!」
征二は突然声を荒らげた。ユイはビクッと征二の様子を見た。俊一は毅然と向き合っている。
「奴らって、誰だ」
「……何度も説明してるはずだ」
「天使の話か」
「そうだ、そうだよ俺は奴らを全部、こ、殺さなきゃ」
「落ち着け。ひとまず水分を摂れ」
「兄さんにはわからない。俺の苦しみなんてわからないんだ!」
征二の中で微妙なバランスを保っていた世界が、一気に崩れはじめる。ちゃんと服薬はしたはずだ。しかし、兄との会話によって導き出された現実、それが強力なストレッサーとなり、恋人が訪ねてきてくれた、一緒に寝てくれる約束までしてくれた、という諸々の幸せは一気に吹き飛び、征二の認識する世界は歪みはじめる。ガチャガチャと不快な音を立てて――手先が震えだした。冷や汗が吹き出してきた。徐々に、呼吸も速くなってくる。
彼は必死で耐えた。現実にしがみつこうとした。しかし―――
俺はおかしくなんかない。病気なんかじゃない。
“じゃあなぜ薬を飲むんだ?”
命令だからだ。俺は捕まっている。釈放されるには、あいつらの言うなりになるしかないんだ。
“誰の命令だ?”
俺は誰の指図も受けない。俺の意志でユイを守ると決めたんだ。
“あの子なら死んだよ。冬の雨の日に、お前に殺されたよ”
何を言っているんだ? ユイは今目の前にいるじゃないか。
“本当にそれはお前の恋人か? 赤い目の天使が化けているかもしれないんだぞ”
………なんだと?
征二が腹の底から絞り出すように、
「うぅっ」
と呻くような息を吐いた瞬間、俊一とユイははっとして顔を見合わせた。征二の表情が見るからに硬くなり、両手も不自然に震えている。
「おい、大丈夫か」
俊一が征二の肩を抱き、声をかける。しかし、征二は自分にだけ認識できる世界に囚われ、意識を侵され始めていた。
堪らなくなってユイも駆け寄る。俊一とユイの2人で征二の体を支えるようにした。あ、あ、あ、と喘ぐような声を出しながら、征二の表情はみるみる強ばっていく。その両眼に、狂気の火が灯る。自分を支えてくれたユイの右腕を、征二は突然鷲づかみにした。
「痛っ、せ、征二?」
ユイは驚きと痛みで顔を歪ませた。その表情が、征二にとっては妄想を確信に変える決定打となってしまった。
「よくも騙したな……」
「え?」
「お前は、誰だ」
「何言ってるの、征二。私よ」
「ユイはどこだ」
「私はここだよ」
「ユイを返せ」
「私はここにいるじゃない。何を言って――」
「嘘をつくな! お、お前ら俺を殺す気だろう。そうはさせるか、その前に俺がお前らを殺してやる!」
現実と幻想の狭間に意識を奪われながら、悲しい衝動に動かされて征二は俊一とユイ、2人の腕を振り払った。上から抑えつけようにも、力なら陸上をやっていた征二の方が勝る。
征二は解放されるやいなや、窓に走り寄りガラスを殴った。バリン、と激しい音を立ててガラスが割れる。 破片が腕に突き刺さり、征二の右腕は流血する。
「征二!」
ユイは悲鳴を上げた。破片の刺さる痛みが、征二の中に渦巻く怒りを煽ってしまう。
血まみれの手に、破片を握って征二は仁王立ちになった。切っ先を2人に向けながら、征二は絶叫した。
「殺してやる……殺してやる!」
PHRASE17 紅涙へつづく