LAST PHRASE 雨がやんだ日

それは付き合い始めて一ヶ月もした頃だっただろうか。初めて二人が結ばれた夜、手を差し伸べてきたのはユイの方からだった。

 

少しつりあがった目を潤ませて、羞恥心から顔を俯かせ、いつも別の布団に寝ていたユイが、午前二時、隣で眠っていたと思っていた征二の頬に触れた。征二はすぐに振り向いた。

「……起きてたの」

「……うん……」

「眠れないの?」

「別にそういう訳じゃ……」

ユイは、白く細い指を、征二の唇に宛がった。

「私は、眠れないよ」

「ユイ……?」

「眠れない……このままじゃ、もう眠れないよ」

「え、え」

征二にもどこか予感はあったのだろう。しかし、まさかクリスチャンの彼女の方がこんなに、積極的に近づいてくるとは思わなかった。キスまでならもう経験した二人だった。しかし、なんの記念日でもない、明日も学校がある、そんな日の真夜中が記念日になるなんて。戸惑いを隠せない征二に、ユイは互いの息がかかる距離まで顔を近づけてきた。

「ねぇ……」

征二の体は緊張に引きつった。しかし、それ以上の興奮が全身に広がっていくのを感じた。

 

それからは夢中だった。二人ともが初めての体験だったので、非常に不器用な結ばれ方ではあったが、繋がった瞬間、ユイは痛みよりも何か自分の中で強大な力が胎動するような喜びを感じた。

雨の夜だった。雲に隠された月は、満月に近かった。五月二十三日、暖かくなってきた季節の、なんでもない日の夜。

明日も、一限から授業がある真夜中。アパートの薄い壁越しに自分の声が漏れてしまわないよう、ユイは必死で声を抑えた。静かな夜だった。雨が優しく二人を包んでいた。征二は合歓する互いの姿の中に、一瞬の光景を観た。

それは、モノクロの世界。

「あっ……」

果てた瞬間、征二は結ばれた充実感や幸福感よりも強大な、『恐怖』を感じた。

何で、何で俺は、こんなに彼女が愛しいんだろう。こんなにも人を愛してしまっていいのだろうか。――愛しい。

ああ、本当に俺は、君が、好きなんだ。

その感情は幸せ一辺倒の色彩ではなく、どこか暗い影も落としていた。あらわな姿で微笑む彼女を見て、彼の目頭は熱くなった。白い肌をもっと愛でたいと思った。

その夜は、互いに恥ずかしくなって、征二は陶器の皿に触れるようにそっと、ユイにキスをした。そのお返しに、ユイも彼の頬にキスをくれた。自分がどこまでも底の無い愛おしさの渦に巻き込まれてしまいそうで、怖かった。

俺は、ユイを愛している。こんなにも、愛している。失いたくない、決して。決して。

 

二人が眠りについたのは明け方になってからだった。二人とも、一限を遅刻した。

 

それからは、ユイが泊まりに来る日はだいたいベッドを共にした。それだけならば、よくあるカップルの光景だったが、まるで儀式のように、行為が終わった後、必ず、征二は泣いた。別段号泣するわけではない。ただ、繋がりを感じるたびに、愛おしさの底がさらに深くなっていって、自分がそこに堕ちてしまうのではないか、

ユイがどこかに行ってしまうのではないか、根拠はわからないがそんな恐怖が彼を襲って、すすり泣くことすらあった。ユイはよくそんな彼をからかった。

「泣き虫ー」

そんな言葉も、何もかも愛おしくて怖かった。

 

ユイはクリスチャンであったから、自分の意志と関係なく生まれ育った環境に影響を受け、よく征二との会話にも聖書やキリスト教の話をした。征二は宗教自体には興味はなかったが、教養の一種だと思って彼女の話に耳を傾けていた。ふと、彼は疑問に思ったことをユイに訊いたことがあった。

「アダムとイヴは楽園を追い出されて地上に来たんだよね。黒いリンゴを食べて」

「そう。蛇にそそのかされてね」

「だったら何で地上に楽園を作ってくれなかったのかな」

「地上に楽園は無いよ。天使達が神の御心を歌い、世界の豊穣を謳うことは楽園にだけに許されているんだもの」

「だったらアダムとイヴは差詰めパイオニアか。いつだって先駆者は駆逐されるけど、彼らは誰から排除されたの?」

「神の使いである天使達じゃないかしら」

 

結ばれるたびに、征二の心の中には深い深い心の奥に“楽園”が築かれていった。

ここでなら、二人だけで幸せになれる。天使に否定されることもなく。俺の創った世界で、二人だけの楽園に還ろう。

ねぇ、ユイ。どこにも行かないで、お願い……。

「また泣いてるの?」

「……ごめん」

「謝ることないよ。征二のそういうとこだって、私は好きなんだよ」

「……」

そして彼の楽園はまた一歩完成に近づく。

 

そして訪れた冬の朝であった。これといった明確な境界線はなかった。ただ、『完成』しただけだ。「楽園」が。

 

「もう、大丈夫だから」

彼は携帯電話の電波に乗って、天使達が自分たちを引き裂くため、ユイを殺しに来ると盲信していた。勝手に楽園を創り出した罪を裁かれることに、彼は抵抗したかったのだ。

 

天使どもはみんな……君を傷つけうる者はみんな………殺してやる。

 

それからあやふやになっていった記憶。彼の中で、築き上げた楽園の主である『神』が彼を支配し始めた。

彼は自分の中に完成した楽園に彼女を連れて行くため、“敵”を全て抹殺しに街に飛びだした。雨の中、いつ買ったかも忘れたバタフライナイフを携えて。神など、どこにもいない、楽園はどこにも無い、ただ俺の中にだけあるんだ。

 

一緒に行こう、ユイ。

 

病院の白いベッドで朦朧とした意識の中でも、必死に伝えたかった言葉を、彼は伝えた。ただそれだけだった。

「俺達の、幸せ、は、もうすぐだよ」

しかし。彼女は否定した。恐怖心から、彼を否定した。

「いやぁっ!」

彼女の叫喚は、彼の中の自我を怖ろしいほど揺さぶった。

 

そして療養生活に入ってからは(彼自身には『療養』という自覚は無かったが)、自分が常に彼女と一緒にいる夢を、彼は見続けた。

彼の兄は、ただ静観していた。そうすることしか出来なかった。時に冷たいと思われるくらい弟に現実を突きつけるときもあった。仕事が終わり、見舞いに行く度に安らかな表情で『ユイ』の話をする弟を、心底憐れんだ。

「いいか。ちゃんと食事は摂れ。就寝時間は守れ。今お前に必要なのは休養だ」

すると征二は不思議な顔をするのである。

「俺は、いつだってちゃんとこの世界を守っているよ。大丈夫。ここに天使どもはいないから」

「……薬も守れよ」

「わかってるよ。俺の使命だから。ユイが言うんだ、薬を嫌がるなんて子供じみたことを言うんじゃないって」

「……母さんが風邪を引いたよ。お前も気をつけろよ」

「大丈夫だよ。楽園には病気なんてないんだ」

その頃の征二には、あの日事故で負った傷跡がまだ生々しかった。

 

L’eternite’

 

Elle est retrouve’e.

Quoi? – L’Eternite’.

C’est la mer alle’e

Avec le soleil.

 

蚕のように閉ざされた征二の世界にひびが入ったのは、一人の新米看護師との出会いであった。

彼女だ。いや、彼女に似ている。じゃあ彼女は誰だ?

………俺は今、どこにいるんだっけ?

 

そして訪れた記念日。神と征二は三月十二日という日付を決して忘れていなかった。ユイの誕生日だ。ああ、ここは楽園じゃない。どこにも楽園はない。でも、花は、咲いている。青色の、エゾエゴサク。届けなければ。この色を彼女に届けなければ。彼女に伝えなければ。

……彼女は、どこだ?

ただ、ただ、残酷な現実が目の前に転がった。今、ここにユイはいないという現実が、ころりと無惨に転がった。

ああ。ああ。逢いたい。逢いたい。逢いたい。

 

そして彼は閉ざされた箱庭を飛び出した。

 

永遠

 

あれが見つかった

何が?

永遠さ

太陽と共に去った

海のことさ

見張り番の魂よ

そっと打ち明けようよ

あんなにもはなかい夜と

燃える昼とについて

世間の評判からも

月並みな方向からも

己れを解き放って

自由に飛んでゆくがいいのだ

なぜなら

サテンの燠よ

ただお前だけから

義務は立ち現われるのだ

ついになどという間もなしに

そこでは望みという徳も

復活の祈りも無用だ

忍耐をともなう学問

つまり責め苦こそが必定だ

あれが見つかった

何が?

永遠さ

太陽と共に去った

海のことさ

 

――それでも彼に、砂は優しく降りそそぐ……。

 

征二はあれから再び救急車で運ばれ、深手を負った傷の手当を受け、その後保護室という名の牢屋の中で処遇されることが決定された。この事については、兄が了承した。しかし、征二はその中で非常におとなしくしていた。毎日十五分だけ許される面会時間には、たまに“彼女”が現れるからだ。

「工藤さん、面会ですよ」

午後二時過ぎ、看護師が半ば事務的に伝えに来る。征二はその言葉を毎日待っていた。ベッドから立ち上がり、自分から鉄製の扉を開く。扉の少し奥、解放されているデイルームのいつもの場所に、ユイは座っていた。

今日はジーンズにコートを着ている。彼女にしてはラフな格好だ。征二の右腕に包帯で巻かれた姿は、見た目に痛々しかった。

「まだ痛む?」

挨拶より先に、ユイが訊いた。

「ううん、あまり。早く作業療法に戻りたいよ」

「その腕じゃ、何もできないんじゃない」

「でも、今作ってる大事なものがあるんだよ」

「ふーん。あ、そうだ。頼まれてたボードレールの『悪の華』、持ってきたよ」

「ありがとう」

「ウチの大学の図書館って、意外に充実しているよね。それ、結構古いから破らないようにね」

「わかった」

「もう、子どもじゃないんだから。征二は素直すぎるんだよ」

「そうかな」

「えへへ、そうですよー」

その様子を、美和は嬉しいような悲しいような、表現のしようのない複雑な心境で仕事の傍ら見ていた。

 

四月下旬になって、面会時間が一日一時間にまで延びた。ある日、俊一が征二に新しい携帯電話を持ってきた。

「……ワンセグ?」

「前のじゃ何かと不便だろ。これならテレビも観れるし、暇つぶしになるから」

「兄さん、俺あんまりテレビ観ないんだけど」

「ニュースくらい観ろ。毎日この中で生活してたら世間知らずになっちまうぞ。知ってたか? 消費税が今年度から二十%に引き上げられたこと」

「え!?」

「バーカ。やっぱりそれが必要みたいだな」

「……兄さんは、相変わらず性格が悪いな」

「変わる理由が無いからなぁ」

 

五月に入って、征二の開放病棟への移動が決まった。右腕の傷もだいぶ癒え、作業療法には差し支えない程度にまで回復した。この頃から、征二は再び詩を書き始めた。大学ノートに思いつく言葉を並べていった。

 

楽園

昔 とある男女の犯したたった一つの罪により

人間が楽園から堕ちたという しかし 太陽は沈んでもまた昇ってくれる

闇の後には光が射す 落とされた地上には今楽園はない

どこにもない いわずもがな 僕の中にすら無い

楽園に彼女を閉じこめようとした罰として 僕は今 箱庭の中にいる

 

神と僕

僕は神である 僕の世界に於いては 僕が絶対の唯一神である

しかし 僕は僕の世界一個だけでは 呼吸すら出来ない

 

僕の人生

もしかしたら 地球に絆創膏を貼るような

無意味のようで優しい行為を 罪を拭うように丁寧に 彼女に捧げることが

これからの僕の人生かも知れない

 

彼女

彼女は太陽だ そして僕を追い込んだ悪魔だ

君が微笑むたびに 約束が凝固する

ずっと一緒だよ なんて 嘘なんじゃないかって

 

五月二十二日の夕方、授業中のユイの携帯電話に征二からメールが届いた。

『明日、カトリック高円寺教会に午後一時に来れるかな?』

……?

『いいよ。三限あるけど、サボっちゃうから』

『ありがとう。晴れると、いいね』

 

美へのうごめき

 

雪のひろがりを背に、長身の美しいものひとり。

死の喘ぎ声と、鈍い音楽の波紋とが

この熱愛される肉体を、

亡霊のように立ちのぼらせ、

ふくらませ、震えさせる。

真紅あるいは黒の傷口が、そのすてきな肉のなかにぽっかりと口をあける。

生に固有の色が、その幻のまわり、作業台の上で、深みをまし、

舞いながら、浮び上がってくる。

そして戦慄が高まり、轟いて、こうした効果の狂おしい味わいが、

われわれの手のとどかない遥かな後方から、

世界がわれわれの美の母に投げかける、

死を呼ぶ喘ぎ声とかすれた音楽とに覆われてくると――

彼女は後退し、すっくと立ち上がる。

おお! いまやわれわれの骨は、恋する新しい肉体に覆われている

 

 

砂時計が――その時を迎えて、新しい時を刻み始める……。

 

EPILOGUE 僕らは幸せです。

 

五月二十三日、晴れ。高円寺にある小さな教会で、僕は待ち合わせより15分も早く着いてしまい、一人でそわそわしていました。僕は緊張と興奮で昨夜眠れませんでした。けれど全然疲れてはいませんでした。午後一時を少し過ぎた頃に、ユイの愛らしいワンピース姿を見た瞬間、僕はため息をつきました。長い長い、澄んだためいきを。

「綺麗だよ」

率直なコトバにユイは頬を赤らめました。僕は彼女のこういう素直なところが大好きです。

「ありがとう」

クリスチャンの彼女のために、約束は教会でしよう、と決めていました。ただ、指輪にはえらく時間がかかりました――これから一生身につけてもらうものだからです。作業療法で作った革製のリングの内側には、二人のイニシャルと今日の日付を彫ることにしました。

 

S&Y 2007.05.23

 

それを見た瞬間、ユイは手を口にあてて、驚いたような、また喜んだような表情になりました。周囲の雑音は殆ど耳に入りませんでした。僕は必死に、震える手でユイの左薬指に指輪を嵌めました。ユイが涙ぐんでいました。今まで見たことないくらいに、ポロポロと泣いていました。僕はそっと涙を指で拭ってやり、もうあとは夢中でユイの唇にキスをしました。拍手も、鐘の音も、何もありませんでしたが、五月の薔薇達だけは僕らを祝福してくれているようでした。

僕らは、幸せです。

 

二人だけの時を刻む閉ざされた砂時計の中で、二人は儚い永遠を誓った。

END