PHRASE 17 紅涙

「征二、やめて、お願い」

ユイは突然の出来事に、ひきつった表情を隠せない。涙すら出ない。

「赤い目だ!」

征二は不可思議なことを、不可解な行動と共に言う。

「お前らの目が赤いのが何よりの証拠じゃないか。俺を騙したな。騙したな。よくも」

「お前、薬は飲んだのか」

俊一は征二の妄想世界を破るように、冷静な質問を返す。

「薬? あのジャラジャラしたカプセル達のことか? ああ飲んださ、命令だから」

「誰のだ」

「アレを飲むことで俺は支配される。驕りだ。神が人間ごときに支配されるなんて!」

征二の言葉には一貫性がない。それは、彼の病気による部分もあるが、同時に彼が創り出した一つの世界を肯定するためのものであった。病気は、イコール彼の住む世界ではない。しかし、彼の生み出した世界から彼自身を捕らえているのは、病気が助長している部分も否定できない。しかし、適切な治療によって彼は既に病者ではなくなった……はずであった。器質的な話だけをすれば、彼はもう病める人の範疇ではない。だが観念的な話をすれば、生来文学に慣れ親しんだ彼の、その想像力故に生み出された世界の中に囚われている状態像は、語弊があるが『病んでいる』と言わざるを得ない。

「その目から潰してやる」

ユイは征二のそんな残酷な言葉も、獣が呻くような低音も聞いたことがなかった。動の征二とは対照的に、俊一は「馬鹿野郎」と吐き捨てて、

「来るなら来い」

と挑発した。征二の流血は止まらない。絨毯に血液で軌跡を描きながら、征二が走り寄ってきた。

俊一は何か吐き捨てると、スーツを盾にしてガラス片をかざす征二の懐に飛び込んだ。

――一瞬の出来事だった。

俊一のこの行動は征二にとっても予想外だったらしく、二人はもつれ合うように床に転がった。透明な切っ先が俊一の顔面の真横をかすめる。征二は悲鳴ともうめき声ともつかない声を上げながら抵抗する。

力なら征二が上だ。しかし、妄想に囚われて現実検討能力が低下していること、そして右腕からの大量の出血が征二の力を奪った。

「くっ」

俊一は渾身の力を込めて、征二の上に体ごとかぶさった。暴れもがく征二の手足を、この状況にしては的確に抑えた。征二の赤く染まった右手に握られたガラス片が、血のぬめりで滑り、彼の手から離れた。あがく手が兄の顔を引っ掻く。兄の顔は弟の血で、左頬が絵の具でフェイスペイントを施したように赤くなった。

「うああああ、うああああっ」

「目を見ろ」

「あああっ、があああっ」

「目を見ろ、征二」

兄弟は額をがつんとぶつけるような形で、向き合った。上にかぶさった俊一が、まるで狩りに成功した猛獣のような格好ではあったが、その態度はまるで正反対だった。狩られた方の征二が息巻き、目を爛々とさせ、血まみれの手で兄の顔を叩く。力はどんどん抜けていく。俊一は、もう一度、

「目を見ろ!」

と言ってから、平手で征二の顔面を叩いた。

「しっかり見てみろ、どこが赤いんだ」

何度も、何度も叩いた。

「え、どこがだ。見てみろ、しっかり見ろ」

征二は抵抗する気力を失い、ただ頬が赤くなるまで殴られ続けている。堪らなくなって、ユイは声をあげた。

「やめて」

絞り出したような、蚊の鳴くような声だった。だから、彼女は、今度はしっかりと息を吸い込んでから言った。

「やめてよ!」

ユイは重なり合う兄弟の間に割り込もうとして、というよりも俊一を征二から引き剥がしたくて、駆け寄ろうとした。

しかし、動揺が彼女の足をもつれさせた。彼女は、破片の散らばった床に転んだ。

 

一瞬、征二は呆けたような表情をした。何が起きたか、わからないようであった。

 

征二は電源の切れた玩具のように静止し、目だけをキョロキョロ泳がせた。征二の視線に、彼にとって信じられないものが映った。ユイが、彼の割ったガラスの破片で、右目のすぐ下を切ってしまったのである。

傷は、表皮をかすった程度であった。しかし、当然痛みはある。ユイはヨロヨロと体を起こすと、両手で右目付近を押さえた。征二のフィルターを通した世界では、今、ここに、愛する人が、血の涙を流しているように見えた。

「あぁ……」

今度は征二が上ずった声をあげる番だった。自分の右腕が負傷していることより、兄に何度も頬を打たれたその痛みより、自分の愛する人が、目の前で、泣いている。この事実が、彼を現実へと引き戻した。俊一はじっと征二の目を見た。極めて至近距離で、である。しかし、征二はもう彼を見ていない。少し離れた場所でうずくまる、愛しい人の傷ついた姿だけを、凝視している。 俊一は征二の表情から異常な興奮が消えたことを確認すると、ようやく彼を解放した。しかし、征二は動こうとしない。というより、動けないと言った方が正しいだろうか。ユイ自身、顔を負傷したことはショックであったが、それが浅いことがすぐにわかったので、これ以上余計なケガをしないよう、体中に付いたガラス片を払い始めた。その姿を、征二はじっと見ている。時々、「ぅぅ」と言葉にならないような音を喉の奥から出している。一通りガラス片を払い終えると、ユイは立ち上がった。俊一が首を縦に振る。

「征二」

ユイはゆっくり声をかけた。彼女は、未だ動揺が残るものの、

「……大丈夫だった?」

慈愛に満ちた声で言った。征二は、彼女が横たわる自分のすぐ横で声をかけてくれているというのに、まるで赤子のように何も言えない。征二の目には、彼女の右目から紅涙が流れているのだ。しかし、その目は、玉のような、少し茶色い黒である。

……俺は、一体、何をしたんだ?

ユイはそっと征二の頬に両手を当てた。

「何があっても、私は」

少しだけ、深呼吸する。

「あなたを愛しているから」

その言葉を聞いた瞬間、征二の目から溢れるように涙が出てきた。今までの、不安や怒りから流れ出るものとは温度も、色さえも違った。顔面の血と混じって紅涙となって流れ落ちる。

これが、現実だ。彼女は、俺を、愛してくれている。

自分が受け止めきれないほどの感情は、喩え肯定的なものであっても、激しい重圧となってヒトの心に重厚に響く。

 

ユイが征二を愛してくれているという、現実。今の彼には重すぎる現実。幸せすぎて、受け止めきれない。まだ、現実味が湧かない。だって、あの時見捨てられたもの。拒否されたもの。

 

それでも……今、自分の頬に添えられている手は、温かい。

 

征二は横たわったまま、力の入らない右手で、ユイの手を握り返した。ユイの手には当然血が付着するのだが、彼女は嫌な素振りは一切見せない。むしろ、彼女はその手を包んでくれた。

 

征二は、あの冬の日、心の亀裂に、不安と妄想の生んだ黒い雨が染みわたって以来、記憶や思想、彼の今までの人生自体が膿んで、妄想を押し広げ、自分を守るためにただその世界に逃げ込んでいた。それでも、現実と向き合おうとはしていた。しかし、その向き合う現実が、彼の心を掻きむしるものではならない。だから、彼は神と自称する自分に自ら蝕まれることで、自我の崩壊を防いでいた。逆説的であるが、彼の場合は、病むことで、自分を守っていたのである。

心の病というのは、異常な状態像に名前を与え、投薬などの処置を講ずるものである。実際、彼のカルテには一定の病名が記されていなかった。便宜上、暫定の病名は付けられていたし、それに基づいた治療が数ヶ月の入院生活で行われたとされている。しかし、彼が『病んで』いたのは、『愛する人を失ってしまうかもしれない』という、とてつもない恐怖が彼の心の中で黒い雨となり、じわじわと彼を蝕んでいったからなのだ。

今、彼は、ガラスの中に閉じこめられた、サラサラに透き通った砂時計の砂のように美しい彼女の手のひらに触れている。黒い雨が、その色を飴色に、一瞬だけ、先ほど彼女の流した紅色に、そして、無色透明に。それを彼が心象風景で見た瞬間、雨はやんだ。

LAST PHRASE 雨がやんだ日