物語のはじめかた

シンデレラや白雪姫……「お姫様」は、女子の永遠の偶像だ。幼いころ、毎日寝る前に母親に童話を読んでもらっているうちに、比奈子はすっかり絵本に出てくるお姫様に憧れを抱くようになっていた。

比奈子が絵本など読まなくなった高校二年生の冬も、絵を描くのが好きだった彼女は、所属する漫画研究部の原稿に向かいながら、
「私もいつか目の前に王子様が現れて、魔法のキスで幸せになるんだ」

などと夢想しながら、Gペンを滑らせていた。

ペンネーム:清宮あずさ
作品名:星屑のきらめく夜に

きら星のさんざめく夜。流星群が訪れる今宵、少女は不思議な流れ星を見る。流れ星に乗ってやってきたのは、火星の王子様。主人公の少女はその日の学校帰りに、不思議な石を拾っていた。実はそれが火星から失われた『祈りの石』という宝物だった。王子はそれを求めて地球にやってきたのである。二人は、運命的な出会いをする……そして始まるロマンス。

あらすじはこういう感じ。それで、ネームを切って下描きをして、いよいよGペンでペン入れする段階まで来た。絵には、正直自信がない。でも、好きだから描く。どうせ部活の部誌だし、私は素人なんだから、こんなもんだろう。

王子様にきらきらとした目を一個描くのに、二分はかかる。漫画を書くのが想像以上に重労働なのだと、部活に入ってはじめて知った。全体の半分のページにペン入れが終わった頃には、とっくに日付が変わり、気づいたら両親も姉も寝静まっていた。

比奈子は明日も学校があるので、いい加減に寝るかと机を離れた。

寝支度を整えて、いつものようにベッドに転がる。

(……今夜こそ、素敵な王子様に出会う夢が見られますように……)

比奈子は知らない。ロマンスは、過酷な試練を乗り越えた「彼女たち」だからこそ手に入れた、当然の報酬なのだということを。白馬の王子が手を差し出すまでに、「彼女たち」がどんな試練に立ち向かっていったのか。比奈子は童話のハッピーエンドにしか興味がなかったため、そのことを全く考えないで、王子様の登場を夢見ていた。

表現するなら、「強欲な受動態」とでも言おうか。しかしその自覚すらない比奈子のために、また純粋にロマンスを夢見る彼女のために、文字通り「夢」を見せてくれるような奇跡が起きるとしたら、ファンタジックで素敵だが、「現実」はそうはいかない。

その日に限って、比奈子は寝付くことができなかった。しょうがないのでココアでも飲んで眠気を誘おうと、台所に向かった。

音をなるべく立てないように階段を下り、台所の棚を開ける。電子レンジで牛乳を温め、ココアを一口飲む。ほぅ、と息をついて、比奈子は目を閉じた。テーブルに伏せて、そのままの体勢で眠りについてしまった。

次にまぶたを開いたら、目の前には真っ白な世界が広がっていた。

「………?」

(ここ、どこ?)
(あ、私寝ているんだっけ。じゃあ夢か。変な夢)

ドアが三つあるだけの、白い部屋。比奈子はパジャマ姿でマグカップを持ったまま、そこに立っていた。

どうしたらいいのかわからないので、とりあえず歩き回った。

当然、三つのドアが気になる。そっと近づいて、ノブまで真っ白なドアに触れたとたん、一番右側のドアが勢いよく開いた。

「うわっ」

驚いた比奈子は、その場に尻餅をついてしまった。びっくり箱でも開けたようなリアクションに、自分で自分がおかしかった。

しかし、さて、なぜドアが開いたんだろう。

比奈子が見上げると、そこにはまるで絵本からそのまま飛び出してきたような「王子様」がいた。金髪に碧眼、整った顔立ち、豪奢な服装。見まごう事なき王子様。

(王子様?――あら、夢に王子様が出てきた!)

比奈子は目が点になったものの、「夢」の夢がかなったのだと直感し、

「王子様!」

と叫んだ。すると、王子様はニコッと笑った。

「どうもありがとう」
「……い、いいえ」

何が何だかだかわからない比奈子は、しかし、彼の笑顔に一目惚れした。そしてどうせ夢ならばと勢いで問いかけた。

「あなたは、私の王子様ですか」
「ええ」
「そうですか……」

(なんてことだ。本当に「私の」王子様が来てくれた!)

よくわからないけど、とにかく嬉しいので、比奈子は、ぽけーっと王子様の顔に見とれた。

「僕の顔に何かついていますか」
「え、あ、いいえ、違います……」

(やった、やった! 思い続けた甲斐があった)

王子様はひざまずき、比奈子の手を取った。そして流麗な言葉遣いで比奈子に問いかける。

「あちらに樹があるのが、見えますか」
「はい」
「何の樹かわかりますか」
「えっと……なんかなっているわ。木の実かしら」
「林檎です」
「ああ、確かに」

白い部屋の中、自分たちのいるちょうど対角線上に一本、林檎の樹があった。

(どこかで聞いたような伝説があったような。そうだ、校舎裏の杉の下で告白すると、必ずうまくいくって学校の伝説。それに似てない?)

「さぁ、早くしましょう」
「何をですか?」

比奈子の問いかけに、王子様は尚もニコリと笑う。

「儀式です。あなたと僕が結ばれるための」

などと言うものだから、比奈子はすっかり夢見心地で(いや、夢なのか?)何の疑いも持たずに林檎の樹へと向かった。

(――この樹の下で、私達、これからキスするんだわ。夢は見るものよ、やっぱり。白雪姫は幸せ者なんだ……)

比奈子がドキドキしながら王子様についていくと、王子様は赤く実った林檎を一個もぎ取った。

「いい色だ……まさに打ってつけじゃないですか」
「甘くておいしそうですね」
「それはもう。甘さと口当たりは最高級です。ぜひ」
「はい」

比奈子は王子様から林檎を受け取ろうとした。が、ふいに王子様は林檎を指しだした手を引っ込めた。

「え?」

王子様はあくまで柔和な笑顔を崩さないまま、

「大事な仕上げを忘れていました。ちょっと待ってください」
「?」

懐から、服装にまるで合わない注射器を取りだして、

「これがないと意味がありませんから」

林檎に注射をした。すると林檎はより赤みを増し、ツヤツヤになった。

「何をしたの?」

王子様はあくまでも、あくまでも柔和な笑みを崩さないまま、

「鈴蘭から取った毒を入れたんですよ」
「は?」
「さぁ、どうぞ」
「どうぞ、って言われても……」

比奈子は少しずつ、自分の置かれた状況を理解し始めていた。

王子様が持っているのは毒林檎。それを食べたら、お姫様は死ぬ。

そして、王子様のキスで蘇る。

だけど、絵本の通りではないじゃない。

毒林檎を持ってくるのは意地悪な女王の化けた老婆のはず……。

「どうしました?」
「無理よ。こんなもの食べられないわ」
「……何故?」
「だって、嫌よ死ぬなんて。毒林檎なんか食べたくない」

その状態で固まってでもいるのだろうか、王子様は相変わらず笑顔のまま、

「それは困ります。あなたが一度死なないと、僕らは結ばれないじゃないですか」

笑顔でこんな事を言う王子様が、比奈子には一気に不気味に感じられた。

「い、嫌よ」

比奈子はその場から走って逃げた。王子様は別段追いかけるようなことはしない。ただ、じっとこちらを見ている。

比奈子は避難しようと、3つのドアのうち真ん中を開いた。すると、

「私を選んでくれるの? お嬢さん」

別の王子様が出てきた。艶めく黒髪、豪奢な服装の王子様。

比奈子は叫んだ。

「あ、あっちにおかしな奴がいるの。助けて!」
「それはおやすい御用……条件が一つあるけれど」
「何、私に出来ることならなんでもやるわ」
「では、いい返事をいただいたので―――」

黒髪の王子様は背負っていた矢を一本取り出すと、

「ウィリアム・テルに叱られるかな」

と言ってから、慣れた手つきで金髪の王子様めがけて弓をしならせた。

―――トン、

というあまりにも軽い音を立てて、金髪の王子様の笑ったままの眉間に矢が突き刺さり、彼はその場で息絶えた。

比奈子は突然の出来事に慄いた。

「な、なにも殺さなくても……」
「でもこれで、お嬢さん、あなたは毒殺されることはなくなったわけだ」
「そんな……」

黒髪の王子様は、懐からガラスの靴を取りだした。

「さぁ、履いてみせて。本当のシンデレラにしかこれは履けないんだよ」

昔、ディズニーランドでガラスの靴のレプリカを見たことあったが、現物に触れるのは初めてだ。

比奈子はおっかなびっくり、足を入れてみた。

靴は比奈子の足にピッタリだった。

「よかった。これで物語を始めることが出来る。君が選ばれたお姫様。私は一国の王子。あなたが私の元へとやってくるには、まずしなければならないことがある」
「毒林檎はもう嫌よ」
「何でもすると言ったよね? だから、まずは……シンデレラと同等の目に遭わなければならない」
「……あ、シンデレラはそうだ。継母や義姉達に虐められるんだわ」

比奈子は慌てて周囲を見回した。だが、視界の端っこに、金髪の白雪姫の王子様の死体があるだけで、他には誰もいない。

どうなるんだろう、と比奈子が口に出す前に、黒髪の王子様は今度は弓矢をこちらに向けている。

「え?」
「ゲームをしよう。私が十秒数える。その間に君は逃げる。十秒に一回、私は目を閉じたまま矢を放つ。矢を五回、避けられたらゲームクリア、君の勝ちだ」
「な、何よそれ」

黒髪の王子様は、澄ました表情一つ変えず、

「相手を精神的・肉体的に同時に、一気にいたぶるには、ピッタリなゲームだろう?」

などと言い放った。

違う、こんなんじゃない。家でいじめられて、でもかわいそうな私の元には魔法使いが現れるはずなんだ。そしてこの靴を履くことで私は認められ、ついに王子様とゴールインするんだ。こんな趣味の悪いゲームなんて、冗談じゃない。

「ちょっと……」
「じゃあ数えるよ。十……九……」

比奈子は自分がどんな顔になっているか、想像もしなかった。彼女の表情はいまや、夢見る少女のそれではない。不条理と恐怖に歪んだ、それは哀れなものであった。

「八……七……」

何はともあれ、逃げなきゃ。比奈子は反射的に、残る最後の扉を開けた。

すると、まばゆい光が射して、視界はホワイトアウトした。ドアの向こうから、声がする。

「早くしなさい! 早く自分で決着をつけなさい!」

どこか聞き覚えはあるのだが、誰の声かはわからない。

「さっさと夢から醒めなさい! あなたは気づくべきだ!」

どういうこと? あなたは誰!?

「わかっているはずだよ。あなたが僕に光を与えたんだから!」

えっ。

「六……五……」

まさか、あなたは……。

「決めなさい、奴はカウントダウンが終了しないと撃ってはこないのだから!」
「四……三……」
「――っ!」

比奈子はその場の勢いに任せて、ガラスの靴を脱ぐと、そのままそれを握りしめ黒髪の王子様の後頭部に殴りかかった。

威力は相当なものだったらしい。一撃で王子様は倒れ、弓矢を構えたまま痙攣を起こしている。やがてピクリとも動かなくなった。

光の方から、声がさらに言う。

「早く目を醒ましなさい」

白い空間は、二人の王子様の血ですっかり汚れてしまった。

(……もういやだ、こんな場所。私はお姫様なんかにはなれない。なりたくもない。朝起きたら普通にご飯食べて学校行って、部活で騒いで帰りたい。私は夢などみたくない、こんな夢なんて、見たくない)

「現実に帰りたい!!」

光の方から腕が伸びてきて、そのまま比奈子を引っ張った。

白い部屋はぐりゃりと歪んで、二つの死体を巻き込んで消え去ろうとしている。

「助けて!!!」

比奈子は勢いよく体を起こした。

台所だ。時計は真夜中の三時半近くを指している。

伏せて寝ていたせいで、腰が少し痛む。

「夢か……」

(そうだよね。夢に決まっているじゃん)

比奈子は、本気で冷や汗をかいている自分が恥ずかしくなって、小走りで部屋に戻った。机の上には、ペンを入れかけの原稿用紙。描かれているのは美形の王子様。比奈子はそれが急に気持ち悪く感じられてしまった。

「……これでいいんだ」

ああ、そうか。今わかった。

光の先にいたのは、この王子様だったんだ。

どうりで聞いたことあるけど、わからないわけだ。

ペンネーム:清宮あずさ
作品:星屑のきらめく夜に
きら星のさんざめく夜、少女は不思議な夢を見る。夢からさめるための夢を見る。思い描くロマンスの裏側を知ってしまったのである。少女が自分自身の内なる声に耳を傾けたその瞬間から、少女は夢という名の妄想をいだくことはなくなった。
今宵の流星群だって、要は宇宙のゴミの集まりなのだ。ゴミに願いをかける私達は、それだけでもう、十二分に幸せなのかもしれない。

おしまい。

比奈子がそんな単純なことに気づくために、果たして王子様二人分の命が必要だっただろうか?

夢は夢。

しかし帳尻合わせは必ず訪れる。

物語が始まるには、いつだって犠牲が必要なのだ。

彼女が捧げたのは無垢な少女だった自分。

二度と戻れない、そんな分岐点を、気づかない間に通過する人の方が圧倒的に多い。

いつからだろう? 夢を「見るだけじゃダメ」なんてみんなが言い出したのは……。

「夢を見るには代償を払わないといけない」

捧げられた美しい二人の王子の命。その重さを彼女が知る日も、そう遠くはない。知ったその瞬間から彼女を苛むであろう罪悪感が、舌を湿らせながら待ち伏せている。

流星の多い日に自殺者が多いという都市伝説は、あながち根拠がないとは言えないのかもしれない。

比奈子に、あっけなく日常が戻ろうとしている。朝がやってくる。

「彼女」への最後の警告。――物語が始まるには、いつだって、犠牲が必要なのだ。