逝夏

「まるでショパンに対する冒涜よ。そんな弾き方ってないわ」

僕の『幻想即興曲』を水玉はそう評した。

「そうかな」

僕はこみあげる感情と一緒に指先でG#を抑える。反論するわけではないのだが、僕にだってプライドの一片はあるから、つい声が上ずってしまうのだ。

「ショパンだってどんな気持ちでこの曲を作ったことか。フォンタナとの関係だってそうさ、結局彼は死後に裏切られただろ? 美しいだけの曲なんて、つまらないよ」

しかし水玉は表情を変えることなく、こう断言してみせた。

「雑音よりは、つまらないほうがまだマシだわ」

「そうかな……」

雑音、か。

僕は水玉に聞こえるように大きくため息をつき、部屋をあとにした。

僕には双子の兄がいる。水玉は、兄の恋人だった。過去形である以上、兄と水玉はもう恋人ではない。いや、いつからいつまで恋人だったのか、そもそも果たして恋仲であったのか、今となっては甚だ疑わしい。

水玉はかつて重病に侵されていた。徐々に視力が衰え、やがて失明する病だった。

兄はそんな水玉のために、懸命に研究を続けた。昼夜問わず、必死に書物を読みあさり、寝食を忘れ、治療方法の確立を試みようとした。

しかし、兄の願いと努力も虚しく、水玉は光を失った。

その事実を、兄はどうしても受け入れることができなかった。

――そんなものは「愛」ではない、と言われたところで、一体、誰に何を判じることができるだろう。

兄は理性を失い、ショックのあまり、あっけなく気がふれてしまった。有り体に言えば、頭のねじが吹き飛んでしまったのだのである。当事者である水玉を差し置いてそうなってしまったものだから、僕はあきれる以上に兄へ同情の念を禁じ得なかった。

そんなことがあってからの、ある夜のことだ。

「水玉の手術をする」

突然、兄がそう言い出した。僕は耳を疑った。

「僕は水玉を愛しているから」

兄はそうぽつりと呟くと、僕の不安をよそに水玉の眠る寝室へと向かった。たぶん、長いことキスでもしていたのだろうと思っていた。あまりに静かだったからだ。

僕は自室でショパンを弾いていた。幻想即興曲を2回弾き終えた頃に、水玉の部屋から、兄の大きな笑い声が聞こえてきた。まるで泣き声のような、悲鳴のような笑い声だった。僕は、跳ね上がる動悸を抑えながら水玉の部屋へ向かった。

扉を開けるとすぐに、麻酔特有の臭いがした。水玉は完全に意識を失っていた。横たわる水玉のすぐ傍でうずくまっている兄の姿に、僕は戦慄した。

兄はずっと笑っていた、震えるその両の手には、神経から丁寧に切断された水玉の眼球が握りしめられていた。

僕は自分にできる精一杯のことをする以外に、まったく気持ちが向かなかった。向きようがなかった。だから僕は、毎晩水玉のためにショパンを弾くことにしているし、兄のために毎日新しい瓶を買ってくる。兄の部屋には今50を越える瓶が置かれている。毎日新しい瓶に、ホルマリンと一緒に水玉の眼球を詰め替えるのが兄の日課だ。

瓶の数だけ、あの夜を越えられたのだと、僕は自分に言い聞かせている。

僕の部屋の扉が、軽やかに叩かれる音がした。振り向かずともわかる、白杖で水玉がノックしているのだ。

「お入りよ」

僕は楽譜を整頓していた。白杖を器用につきながら、ネグリジェ姿の水玉が問うた。

「今日の月は?」

「下弦の三日月。少し、青いね」

「そう」

眠れないのだろう。僕は兄の部屋から拝借して調合した睡眠薬のカプセルを、水玉の手のひらにのせた。

「あの人は?」

「兄さんなら……いつもの」

僕は一瞬だけ言葉を詰まらせる。

「作業中だよ」

「……そう」

そうして僕は街で新しい瓶を買う度、兄の部屋にそれらが並んでいくのを見る度、途方もない孤独と罪悪感に苛まれる。

気がふれたのは兄自身の弱さに他ならない。兄は、己の弱さを振りかざして、水玉を傷つけたのだ。それをどうして他人は「愛」などと呼びたがるのだろう。眼球を抉り出して瓶に詰め替える、その行為だけをあげつらって、兄を異常者呼ばわりする者までいる。

なんてことはない、兄はただ弱かっただけなのだ。

あらゆる方法論を越えて生きろと伝えることができなかった。兄にとって机上の倫理など、風前の砂塵より儚く価値のないものだった。

「なぜ水玉を、ありのまま愛せなかった?」そう責めることは簡単だ。しかし、僕には到底そんなことはできない。なぜと問われても、僕はこう答えるしかないのだ。

「兄の気持ちが、理解できてしまうからです」

ある日、いつもの雑貨店に行ったら、赤色の瓶が売られていた。透明や水色のものはよく見るが、珍しい色だ。綺麗ですね、と話しかけると店主は、そうですね、とだけ答えた。特に深く考えず、僕はそれを買って帰った。

「今日は、ショパンは弾くな」

赤色の瓶を見るなり兄は、僕に強い口調で命令をしてきた。

「なんで?」

「シュトラウスを弾け」

「あまり得意じゃないんだけど……」

「……ショパンは弾くな」

「……」

夏が終わる。季節は容赦なく巡るが、兄の時間は恐らく止まったままなのだろう。水玉の美しい碧の瞳は、ホルマリンの中を浮遊するばかりで兄を見ることは決してない。

赤色の瓶に入れられた眼球は、その美しさをくすませるに十分だった。兄の不機嫌の理由がわかった気がした。

僕は、あまり弾きなれないシュトラウスをどうにか弾いた。水玉が口を開くことはなかった。白杖を揺らしてリズムを取っていた。どこか、楽しそうな印象を受けた。

兄は覚悟などとうにできていたのだろう。覚悟というより、決意というべきだろうか。だから僕は、兄が何をしようとしまいと、非難もしないし、称賛もしなかった。兄の弱さを責めるつもりは毛頭なかったし、兄の本来の才能を羨むこともなかった。

「綺麗な水のある場所へ行きたい」

そう兄が告げた時に、僕の中で静かに幕が下り始めた。しばらく家から一歩も出なかった兄がそう願うのだから、そうすればいいと思った。町はずれの湖がいいだろうと僕は助言した。

新月を数日待って、兄は透明な瓶を真白い絹で包んで、夜の森へと出かけていった。この数日間は、いつもと変わらない日々だった。兄は机に向かって書きものをしていたようで、仕上がったそれを僕に託してから出立した。

兄が帰ることは、なかった。

数日後、湖畔で窒息死している兄が発見された。傍らには空になった瓶が落ちていたという。兄は咽喉に水玉の眼球を詰まらせて死んだのだ。

水玉へ
僕は君を愛した。君のことなどお構いなしに、君を愛してしまった。償い方がわからないので、償うことはできない。
君には赤色は似合わない。月の赤い夜には外出しないように。シュトラウスよりショパンが好きだと君は言うが、そこは合わなかったね。
僕は君の傍にいることにした。いつか、ショパンの良さも理解できるように。

いつか、君と一緒に星空が見られるように。

「あの人は?」

「君と、一緒にいるよ」