言葉が抑圧を生む

彼の仕事、ライフワークとも深く関係することらしいのですが、先日、彼がこんなことを言いました。

「人間は、言葉という文明と引き換えに抑圧から逃れ得なくなったんだね」

アタマワルイ私にはイマイチ理解が追いつかないのですが、どうやらその「抑圧」からの自由を人間は求めていると。
赤ん坊は人間そのものだという言説があります。すなわち、丸裸で、本能のまま泣き、求め、果たす。それこそが人間本来の姿だと。

言葉は抑圧を生む。

赤ん坊が意味を覚え、やがて我慢を知り、抑圧に遭遇するプロセスには言葉という文明が深く関わっていると。

しかし、どうでしょう。抑圧からの自由に資するのも、また言葉ではないでしょうか。実際、私は自分の言葉を発信することで、かなりの解放感を味わっています。

「要は使い方なんじゃないかな、言葉は」

私がそうまとめようとしても、彼はゆっくり首を横に振ります。

「魔法だからね、間違いなく。使い方を誤れば、間違いなく誰かを傷つける。その傷が、新たな抑圧を生む」
「……」

彼の気持ちを侵すつもりは毛頭ないので、私は「言葉」を飲み込みました。朝焼けに穿たれた黒点のような鉄に似た味がしました。それこそ、抑圧された気分でした。

彼の職業を、実は私はよく知りません。ただ、人間の本質とか感情を解き放つこととか、そういったものに肉薄しているらしいことは、なんとなく知っています。

その彼が、「抑圧からの自由、解放」を謳うのは、他ならぬ彼自身が言葉によって抑圧されているからなのかもしれません。
そんな彼をどうにかしたい、という想いは、私のエゴなのでしょうか。それこそ、新たな抑圧になってしまうのでしょうか。
答えは、しばらく出そうにありません。