第十九話 慈愛の罠(五)許し

都心で耳にする蝉の声よりも、この奥多摩の森林から注ぐそれらは柔らかく美奈子の耳に沁み入った。アブラゼミ、ミンミンゼミにまじってこの頃ではクマゼミがこの辺りにまで生息域を拡げているらしい。独特のわら半紙を擦り合わせたような鳴き声も、今の二人には優しく感じられた。

美奈子は木内の癖字を丁寧に目で追った。ページをめくるたびに彼の過去を一つずつ知る。その動機は決して軽薄な好奇心ではなく、純然たる恋慕であることに、美奈子は未だ気がついていない。

かたや、クロッキー帳の上で鉛筆をぎこちなく動かしている裕明も、なぜ自分の鼓動が強く打つのか、美奈子の横顔を写生する手がどうしても止められないのかが自分でも理解できずに、強い戸惑いを覚えていた。それでもクロッキー帳に彼女の面影が浮かび上がっていくことに、喜びを感じているのも事実であった。

克明に記された裕明のカルテは、診療記録というよりは木内の日記のようであった。字こそ読みにくいが、どこか見守るような優しい筆致で裕明のこれまでが綴られている。

キャッチボールをした。裕明はボールを投げるときは左手を使うのだとはじめて知る。聞けば、施設で左利きを右に矯正されたとのこと。ここではそんな必要がないことを伝えると、裕明は驚くほど遠くへ白球で放物線を描いてみせたので、奥多摩クッキーフォーチュンズで外野手をやってみないかと誘うも、はにかんで首を一度だけ横に振るに留まった。

美奈子の白い指が、次々にページをめくっていく。

恵美さんの昔からの親友、メイさんがこの町に店を開くという。てっきり占いの館でも始めるのかと思いきや、なんとスナックとのこと。店の看板を裕明に描いてもらったらどうかとメイさんに提案すると、とても喜んでくれた。りんどうは紫色なので、恐らく大丈夫だろうと思う。もうすぐ最盛期だ、楽しみがまた増えそうだ。

一つを知れば、もう一つが知りたくなる。一を手にすれば十を欲し、十が得られれば百を望み始める……果てのない、それは間違いなく、純然たる欲求であった。

裕明の誕生日。恵美さんがホールケーキを焼いてくれたけれど、裕明はそれを口にしたがらなかった。自分の誕生日が、秀一の命日だと知っていたからかもしれない。気にせずに食べましょうと恵美さんが声をかけると、裕明の視線が固まり、十秒ほどの沈黙ののちに、人格を秀一に交代させた。随意での人格交代は不可なはずなのに、きっと裕明の優しさがこの日に秀一を呼んでくれたのだと信じたい。三人で、ケーキは完食してしまった。

裕明もまた、スケッチブックに少しずつ美奈子の姿が浮かび上がっていく、その光景に視界を預けているうち、制御しがたい情動に襲われ始めていた。
鈍い熱とともに頭の奥に鈍痛を感じ始める。度し難い「それ」は、しかし他ならぬ生存の肯定でもあるため、無碍に拒絶ができない。故に彼は身を委ねるほかになかった。

しかし「それ」は彼にとって恐怖でしかない。彼は反射的に背中を丸めて目をかたく閉じた。

(生まれておいで)
(私が許す)
(人殺し!)
(生まれておいで)
(私が認める)
(お前は、自分まで殺したんだよ)
(嫌だ、嫌だ、嫌だ、)

彼はまぶたの裏に滲む世界に耐えきれなくなって、やむなく瞳を解放した。必死に鉛筆を握りしめ、クロッキー帳を、怪我を負っている左腕で支え、どうにか現実にしがみつこうとする。しかしながら、それは叶わぬ願いである。なぜなら、「彼」が己の実存可能性の低さを示唆する黒点と成り下がる時、(自分では認めたくない)己の本質に臨むことを彼は決して拒絶できないからだ。

呼吸が徐々にちぐはぐになっていく。彼はそれを美奈子に悟られまいと、頭を何度も振った。

つまるところ、彼は人格の座を「彼」へと手放す瞬間、あらゆる抑圧から解き放たれて、底の無い快楽に溺れるのだ。その窒息、或いは抵抗の結果として、無意識の檻に自ら駆け込むがゆえ、彼は自らの主体的な体験としての充足を未だ知らない。

知らないことを知るというのは、既に知ってしまった人間にとっては想像のつかない障壁なのだ。

全身にほとばしる「ざわめき」に耐えきれずに声を漏らした。驚いた彼女がカルテから目を離して、背中を丸める不自然な姿勢の彼の顔を覗き込む。彼女が彼を気遣う言葉をかけてくれても、それに応答することがどうしても彼にはできなかった。

死ぬことを「逝く」と表現するのは、それが一つの終わりと同時に始まりを意味するからなのかもしれない。人が繰り返し衝動に魂を削られながらも「それ」を求めることを避けられないことが、生きることの究極的な意義が「有限であること」の証だ。

彼は体を強く丸めて自意識を守ろうとした。しかし、快感の奔流が大きな口を開けて強大な引力で彼を手招く。彼はそれに抗えない。彼は懸命に左腕を宙空に突き出し、彼女の瞳を描くイメージでその指先で何度も弧を描いた。彼女のつぶらで透き通った瞳に、どこまでも深い優しさをたたえる女神の幻影を求めていたのかもしれなかった。

彼女は彼の突然の異変を訝しみつつも、彼の傷ついている左手を包み込むように両の手で胸元へ引き寄せた。その体温が直に沁みてくると、彼の瞳はいよいよ欲望を帯び、脈を覚えて彼の思考を支配し始めてしまう。

(どうして、自分が「いること」なんて、いちいち確認したがるの?)

ごめんなさい、わかりません。でも、僕は確かにここにいていいんだって、「あなた」に認めて欲しかった。それだけなんです。)。

彼女は顔に彼に対する心配の気持ちを素直に表出し、自分の右手を彼の額にあてがった。少しだけ汗ばんでいるそこに触れると、彼女の右手はじんじんと疼く。そのことで、彼の動悸はいよいよ誤魔化しきれなくなってしまう。
彼女は、彼に熱はなさそうだと判断したものの、どこか火照っているようにも感じられたので、どうしたものかと首をひねった。

「大丈夫ですか」
「……いいえ……」

彼女は考えるより先に、自分の腕の中で小さく震える彼を抱き寄せた。そうする以外の選択肢がまるで見つからなかった。彼は、許しを乞う子どものように震えている。その姿は彼女の目には、ひたすらに愛おしく映った。

彼は太ももから下を小刻みに震わせながら、蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」を繰り返す。彼女はあらゆる文脈や説明責任といった抑圧の鎖を軽やかに超え、今この瞬間の彼にかけるべき最適解の言葉を、体温とともに伝えてみせた。それは、もしかしたら奇跡の一種だったかもしれないし、出会った二人に訪れるべきだった必然だったかもしれない。いずれにせよ、何一つ誰からも責めを受けることもない出来事なのかもしれなかった。

「あなたは、何も、悪くない」

その言葉を耳にした彼は、ぎこちなく、しかし確かに彼女を左腕で抱きしめ返すと同時に、目をかたく閉じた。

許されてはならないんだ、僕は。こんなふうに抱きしめられて人の温もりを……気持ちを感じてはならないんだ。

それでも、今ここでこのまま、彼女に受け止めてもらうことができたなら。そんなことを考えてしまう。

思考はそれ以上意味を持たなかった。抑制の放棄を許された彼は、乱れてゆく呼吸が、鼓動が、このままいっそ止まってしまえばいいとさえ強く願った。それと同時に、「抗えないのなら、抗わなければいい」ことも、身体が理解していた。

「あっ……」

無防備に幾度となく漏れてしまう己の声が、この世で一番醜いもののようにも感じてしまう。こんな姿を晒してまで、生きなければならない理由があるのなら、誰か僕に教えてください。

(苦しいの?)
(夢でも見てろよ)
(一瞬のことだよ)
(全部、幻さ)

そうして、彼の意識は遥か深淵へと遠ざかっていく。「ごめんなさい」という言葉を残して。彼女は、戸惑いとそれを上回る慈しみの気持ちを添えて、彼に寄り添うようにして目を閉じた。

そんな二人に、窓辺から遊びにやってくる風は、変わらずに優しい。彼女はたまらなくなって、自分の腕にもたれかかる彼の、うっすら汗の浮かんだ額に唇を添えた。

彼女もまた、彼に寄りかかるようにして、お互いを支えるような格好で目を閉じた。不思議な心地よさが、彼女の心の中に広がっていた。

そんな二人の様子を見つめていた奥多摩の風は、知っていたのだろうか。過日にこの世を去った一人の男が、ふたりを凝視していることを。

お前が誰に許されようと、俺はお前を決して許さない。お前が大切なものを得るのなら、そのすべてを必ず壊してやる。お前は、あの日のようにただの無力な傍観者として、幼い舌で血の味を知った罪を償い続けるんだ。

美奈子が目を覚ましたのは、彼より後のことだった。彼はいつのまにか、風の通り道になっている窓辺に腰掛けて髪をそよがせていた。

「おはよう……」

ためらいがちに美奈子が声をかけると、彼はどこか神々しさのような違和感をたたえ、両眼を細め、美奈子にこう言葉を返した。

「おはよう、雪」


▽つづく

第二十話 慈愛の罠(六)詩歌