【カルテNo.3745 皆川亜樹(ミナガワアキ)】
21歳3カ月、女性。境界性人格障害。
大学生。入学当初より、一人暮らしの緊張や慣れない土地での暮らしに疲れ、不眠となる。
アパート近くの心療内科に二年間通院。一年ほど前から自傷行為が出現。症状悪化のため、当病院へ平成17年6月より任意入院。
まぶたを開くのが妙に重たい。固いベッドのせいだ。脳みそに機械でも埋め込まれているんじゃないかと思うくらい、毎朝ほぼピッタリ午前5時半に目が覚める。もうずっとそうだ。
喉が異様に乾いていたので、亜樹はプラスチックのカップを持ってベッドを降りた。足元がおぼつかない。これもみんなあの飲み下しづらい錠剤のせいだ。疎ましい。
亜樹が足をのそのそと動かしてナースステーションに向かうと、すでに先客がいた。最近入院した元サラリーマンだ。こんな時間なのに、ぱりっとしたシャツを着て、ステーションの机に向かって何か話している。亜樹は興味本位で、彼の話を聞きたくなってそっと近づいた。
「ですから……いつになったら出られるんですか……」「俺はこんなところにいる人間ではないです」「会社をクビになってしまいます。お願いですから……」
亜樹は彼の言葉に少しだけ同情した。
(そりゃあねぇ、こんな場所にいたら誰だって焦るよ、最初は)
すると夜勤帯の看護師は彼をなだめるように言う。
「伊瀬さん、焦ることが一番よくないですよ。もうすぐ起床時間で忙しくなるから、また後でね」
(あの人、イセさんっていうんだ。ふーん)
どうやらイセさんは納得いかないようだ。
「主治医に会わせてください! お願いですから……」
「今は無理です。伊瀬さん、病室で休んでみてはどうですか? 少し落ち着きましょう。パキシルでも飲みます?」
「要りません。あれは頭の回転が遅くなる。仕事に支障が出る」
「ですから、まだお仕事には復帰できませんよ。最低でも一ヶ月は入院、と同意したでしょう」
「違う、あれは騙されたんです。入院の“に”の字も俺は聞いていない」
それを聞いた看護師は、これ見よがしに伊瀬さんのカルテを取りだした。
「あ。医療保護入院か。同意したのは奥様ですね」
「香織が勝手にしたことです。これって人権侵害じゃないんですか!」
「伊瀬さん……わかりました。話を聞きましょう。でも、今も言いましたがこれから起床時間で忙しくなります。ですから、朝の服薬が終わってから、にしましょう。どうですか」
「ん……」
イセさんは何か言いたいことがあるがそれを無理に抑えたような表情で、
「わかりました」
と呟き、きびすを返してナースステーションを出た。
亜樹は何も知らん顔で、彼の去っていく足音を聞いていたが、すぐにステーションの中から声が聞こえた。
「皆川さんは、何か用ですか」
亜樹はやべっ、と心で舌打ちしてから、
「はーい」
と澄ました顔でステーションに入った。
「眠れなかったの?」
「いーえ」
「じゃあただの早朝覚醒ね」
『ただの』ってアンタ、そういう言い方はなかろう。と亜樹はツッコミたいのを堪え、
「ね、ね、さっきのサラリーマンだった人、なんで入院してるの?」
自分の好奇心を満たすだけの質問をした。看護師は当然、首を横に振る。
「プライバシーだから言えません。皆川さん、もしあなたが誰かに知らずに病名を知られていたら、気分悪くない?」
「それもそうだ」
亜樹は『いつもの』と接頭語が付くくらい決まった場所に座る。それは看護師長の席である。ふかふかの椅子。看護師長はよくここでふんぞり返っている。
「ねー田島さん、田島さんはなんで看護師になったの?」
「看護師になりたかったからですよ」
夜勤の田島さんは亜樹の質問にほぼ自動的に答える。なぜなら、この質問は亜樹からもう何度されたかわからないくらいだからだ。
「ね、こんな歌知ってる? MIsiaの『Everything』」
「誰それ?」
田島さんは50代半ばのベテラン看護師だ。21歳の亜樹と話が合わないのは至極当然である。
「いい歌なんだよ。you are everything~♪」
「皆川さん、まだ起床時間前だから静かにして」
「へーい」
看護師長の椅子を回転させながら、亜樹はさらっと答える。
「でももうすぐ6時じゃん。毎晩9時に寝てたら、いやでも早起きになるって。お年寄りみたいだ。田島さんとか看護師ってさ、夜勤とか辛くないの?」
「もう慣れたものよ。この道ン十年ですから」
「さっすがー」
亜樹が口笛を吹いて、それを田島さんに叱られた時、病棟中の電灯が灯った。
「あ。起床ね。放送かけるから、静かにしててね」
「うん」
『みなさんおはようございます。今日は2月14日の火曜日です。朝食は7時20分です』
亜樹はナースステーションの壁に貼ってある献立表を見た。
「うわ、またヒジキの煮物? 週に2回は出てるし。なんだよ~」
「はいはい、もう自分の部屋に戻って」
「わかりました。けど、ヒルナミンください。朝からうるさくって」
「例の『合唱』?」
「うん」
「少し処方を変えてもらった方がいいかもね。今日神田先生は午後からご出勤だから、相談してみたら?」
「そーっすね」
亜樹の手のひらに粒ミントよりも小さい錠剤がのる。こんなちっぽけな一粒が、自分には必要なんだと思うと、なんだか笑えてくる。
朝食後にラジオ体操があるのだが、まったくもって興味もないし、意味も見いだせないため、亜樹は椅子に座ったまま携帯をいじっていた。
「あ、こら皆川さん。携帯電話は10時からって言われているでしょう」
名前もよく覚えていない看護師に注意されて、亜樹は仕方なく携帯の電源を切った。
(10時からって意味わかんない。誰かが適当に決めたルールだろうな。いと、ばかばかし)
朝のミーティングとやらに出席しなさいと担当ナースの大路さんに言われているので、亜樹はしょうがなくデイルームに顔を出し、適当に席を選んでミーティングが始まるのを待っていた。
ミーティングは10時を少し過ぎてから始まる。なので亜樹は携帯を復活させて話半分に参加していた。ミーティングの議長らしき若い男性患者が、
「それでは、2月14日のミーティングを始めます」
と事務的に言うと、なぜか拍手が起こった。パチパチ、叩いていたのは一人だけだったが。車いすに乗ったおばあさんだ。認知症とやらでここにいるらしい。ミーティングを演説か講演と勘違いしているのか。ちょっと面白い……って不謹慎か。
「では、昨日木嶋さんから提案されました、食事後のテーブルを拭く担当を決める件についてですが……」
ミーティングといってもこんなものだ。まるで学級会じゃないか。まぁ、それなら学校にいるみたいで悪い気はしないが、いい歳の大人が集合してそんなことを真面目に検討することが、なんだか亜樹には今更ながら虚しく感じられた。
「一覧表を作って、ちゃんとわかるようにした方がいいと思います。サボる人が多いからです」
「部屋ご単位で決めた方がいいんじゃないですか? それだったらわかりやすいし、同室なら互いが監視役になれると思うのですが」
「監視って言葉は好きじゃないな、なんだか縛られているみたいで」
等々、意見が取り交わされている中で、中年の男性が突然、怒ったように席を立った。
「原島さん、どうかしましたか?」
議長がそう言うと、原島さんと呼ばれた男性はダン、と床を踏んだ。
「そんな細かいことは看護師にやらせればいいだろう! こんなことのために毎朝集まるのは馬鹿馬鹿しい。俺は早くタバコが吸いたいんだ、外へ出せ!」
長年の薬の副作用か、ろれつが回らないので聞き取りづらかったが、原島さんはそのような主旨で怒鳴った。
議長を務めていたのは森さんという30代の患者だったのだが、その森さんは機嫌を損ねたらしく、
「ミーティングへの参加・不参加は自由です。嫌なら出ていってください」
と言い放った。原島さんは「ふん」と吐き捨てて、デイルームを出ていってしまった。
参加が自由? そんなこと看護師から言われたことないし。と亜樹は携帯をいじりながら心中でつぶやいた。
結局何がどうなったのかわからないうちにミーティングは終わり、作業療法の時間になった。
「あー。めんどい」
亜樹の同室患者である山野さんがあくびのついでに大きな声で言った。
「亜樹ちゃん。よく毎回行っているわね。面倒じゃない?」
「うーん、でも、ずっと病室にいるよりマシだし」
「あたしは寝てるわ。欠席報告頼んでいい?」
「へいへい、“体調不良”ね」
病棟を出て右に曲がると、すぐに作業療法棟とデイケア施設が見える。亜樹が首から携帯をぶらさげたまま、スリッパをペタペタ言わせながら歩いていると、
「あー、亜樹ちゃんー」
背後から声がした。
「おはよう~元気~?」
ごっちゃんだ。本名は「後藤」で、いつもゴスロリっぽい格好をしているのでそう呼んでいる。ごっちゃんは入院患者ではなく、外来に通いながら作業療法に参加している。
ごっちゃんは左手首に包帯を巻いている、いわゆるリストカッターだ。亜樹はふと、その包帯が新しくなっていることに気づいた。
「ごっちゃん、また切った?」
「うん」
「いつ?」
「昨日」
「ふーん」
作業療法室に入ると、各々が好きなことに興じている。真剣な表情で編み物をしているおばさん、ろくろを回して陶芸品を作っているおじさん、革製品に色を塗っている女の子、漫画を真顔で読んでいる青年。年齢層もバラバラなら、病名もまたバラバラなんだろう。
ちなみに、ごっちゃんは境界性人格障害。ボーダーってやつだ。昨日手首を切ったと言うことは、今日は機嫌がいいはずだ。昨日爆発したのなら、今日は噴火しないだろう。
亜樹は革製品に染色して、小銭入れなどを作っている。この染色がなかなか難しい。間違えても消しゴムで消すわけにはいかない。さらに、製品としてバザーで売るというから、適当な仕事も出来ない。本来、美術が得意だった亜樹にとっては苦にならない作業だが、売り物となると多少緊張はする。昨日は裏面に、青と緑のグラデーションを塗ったのだった。
「さて、今日は……と」
亜樹が筆を探そうと席を立つと、すぐ背後に人がいることがわかった。
「わ」
亜樹が驚いて声を出した。と同時にため息を小さくついた。
(……まーた、コイツか)
週3回の作業療法で必ずと言っていいほど毎日ちょっかいをかけてくる男性だ。名前は何度か聞いたが、覚える気がないので覚えていない。亜樹は少し威圧感を込めて、
「すみませんが、どいてもらえません?」
そう言ってから、
(すっげー邪魔だから)
と内心で付け加えた。
すると男性は亜樹の言葉に込められた圧力にあっさり屈し、道を開けた。しかし、背後からついてくるのだ。
「おはよう、皆川さん」
「おはようございます」
亜樹はほぼ棒読みで答える。しかし男性は、
「昨日はどうもありがとうございました」
「は」
「お礼が言いたくて。では」
それだけ言うと、男性は去っていった。いつものようにまた「隣の席、いいですか」などと言われるのかと思いきや、やや拍子抜けだ。
(なんなんだよ、もう)
モヤッとした気分を味わせた彼に軽く苛ついたが、しかし亜樹はすぐに気持ちを切り替えて、筆を見つけると席へ戻った。隣ではごっちゃんが編み物に興じている。
「アイツ、三枝さんって言ったっけ? また亜樹ちゃんにちょっかい出してたね」
「もう放置ホーチ。今日はなぜだかお礼を言われたさ」
「なんて?」
「ありがとうございました、だと」
「何かしてあげたの、亜樹ちゃん?」
「別に何も思い浮かばないけど。あの人の世界で何かあったんじゃないの」
「うっわ、妄想? へー、あの人、外見はそんなに悪くないよね。背ぇ高いし、メガネ似合ってるし、優しそうじゃん」
「……何、アイツのこと気に入ってるの?」
「まっさかー、亜樹ちゃんに悪いよ」
「冗談やめてよ」
小銭入れの表面に鮮やかなグラデーションと花を描き終えた頃には、ちょうど作業療法もおしまいの時間だった。
作業療法士の霜月さんが亜樹の作品を見て「おー」と声をあげた。
「あとは乾燥させて出来上がりだね。いい出来栄えじゃないですか。ちゃんと商品になりますよ。私だったら買うなぁ」
だったら今すぐ買ってよ、と言いたいのを堪えて、亜樹はやや疲れた表情で
「どうも」
とだけ返した。
亜樹のいる病院では、作業療法は週三回行われる。だから、ごっちゃんと会うのも週に三回だ。
「バイバイ。また明後日ね」
「バイバイ。手首切っちゃダメだよ」
「バイバイ」
遠回りして中庭を通って病棟に戻る途中、花壇が目に付いた。花が新しくなっている。色とりどりのパンジーが植わっていた。小さな看板が立っている。
『きらめきの会 お花を大切に』
「きらめきの会」というのはこの病院にある家族会の名称だ。亜樹の母親も参加している。時々会合に出席するのだが、他の患者の親に
「皆川さんは羨ましいわ。お嬢さん、すっかり元気になられて……」
と異口同音に、親と自分のいる前で言われるものだから、あまり居心地のいい場所ではない。まるで自分ばかり「優良患者」みたいな扱われ方なのだ。
言葉の裏に、
「あなたは楽でいいわよね、うちなんか、こんなことやあんなことで大変なのに……」
というメッセージが見え見えなのだ。
しかし、植えられた花に罪はない。亜樹は咲き誇るクロッカスを目で楽しんでから、トコトコと病棟へ戻った。
病棟へ戻って小一時間で昼食だ。それまでの時間、亜樹は大抵ベッドに寝っ転がって過ごす。今日もそうするか、とあくびをしながら病棟の扉を開け、デイルームを通過して部屋に戻ろうとした時である。
「皆川さん」
デイルームの方から声がした。たまに聞く声だ。
「あ、豊川さん。こんにちは」
「こんにちは。皆川さん、今、お時間ありますか?」
うむむ、と亜樹は心の中でうなった。昼寝をするつもりです、とはどうも言いにくい。
亜樹が困り顔をしていると、豊川さんは白衣のポケットから折り畳まれた紙を出した。そこにはハローキティのプリントと『亜樹へ』と書かれた母親の字が書いてあった。
(あ、そーか。そういうことか)
「もしよかったら、面会室へ行きませんか」
「はぁ」
白衣を着ているとはいえ、豊川さんは医師ではない。亜樹が入院して初めて知った職種だが、どうやら病院にはソーシャルワーカーなる人種がいるらしい。他にちゃんとカウンセラーはいるので、それとは異なるらしい。
そう言えば以前、豊川さんはこう名乗っていた。
「はじめまして。皆川亜樹さんですね。僕はソーシャルワーカーの豊川といいます。生活上で困ったことや、親御さんに話しづらいことなど、もしありましたら色々相談してくださいね」
要は何でも屋さん、か?
その『何でも屋』豊川さんに連れられて、亜樹は面会室に入った。すぐに、
「最近、調子はいかがですか」
ときかれたので、
「早朝覚醒がちょっと……あと相変わらずすぐイライラしちゃいます」
と答えた。豊川さんはそれを素早くメモすると、脇に抱えていたファイルと先ほどのメモを亜樹の目の前に置いた。
「お母さんから伝言です。亜樹さんの許可をいただければ、一緒に中身を見たいのですが」
「あ、別にいいですよ」
「そうですか。では、開けますね」
亜樹へ
神田先生から、そろそろ退院のお話が出ています。そのことは亜樹も知っていると思います。ですが、我が家にはまだ、あなたを受け入れるための準備ができていません。もう少し、専門家のいる場所でゆっくり休んでくれませんか。またお見舞い行きます。
「……」
「……」
豊川さんは明らかに困った顔をしている。そりゃそうだろう、本人の目の前でこんなメモ見ちゃったんだから。しかし、当の亜樹は冷めた様子で、
「……別に、いいんです」
ポツリとこぼした。
「皆川さん、もしよければ今度、お母さんと三人で面談しませんか」
「豊川さんと一緒にですか」
「ええ」
「別に、かまわないですが」
「そうですか。では、またご連絡しますね。このメモはどうしましょう」
「あたしにください。母からの手紙だし」
豊川さんは少し思案してから、メモを亜樹に渡した。そして、この場の空気を変えるためか、
「あ、もうすぐ昼食ですね。僕も戻ります。いきなりお訪ねしてすみませんでした」
そう言って、足早に病棟から帰っていった。亜樹は長いため息をつくと、部屋に戻ってベッドに寝っ転がった。
「亜樹ちゃんおかえり」
カーテン越しに患者仲間の山野さんが声をかけてくる。亜樹は返事もせず、ポケットに入れた母親からの伝言が書かれたメモを取り出すと、
(バカだ。みんなバカだ。あたしが一番バカだ!)
こみ上げてくる怒りにも似た悲しみに突き動かされるままに、ビリビリに破って捨てた。
昼食はキツネうどんだ。学食の方がよっぽどおいしい。ぬるい上に味もない。半分残して、亜樹は部屋に戻るとふとんをかぶって寝ることにした。だが、安眠できるわけではない。横になるだけだ。そして――こういう時に限って、聞こえてくるのはウィーン少年合唱団。亜樹には外国語がわからないため、何と歌っているかはわからないが、とても綺麗な歌声だ。神様でも賞賛しているのか?
(ああ、うるさい……)
「皆川さん。また寝ているんですか」
声をかけられて亜樹はハッと目を醒ました。いつの間にか寝てしまっていたらしい。見上げると看護師の大路さんがこちらを覗いている。
「今日のバイタル忘れてました。今からいい?」
「あー……」
亜樹はボーッとした頭を掻いて、時計を見た。もう午後2時半。
「その様子じゃまだお風呂入ってないでしょう」
「はい」
「水曜日なんだから入らなきゃ。じゃないと金曜日まで入れませんよ」
「はい」
亜樹は大路さんがやりやすいように腕を少しあげて、血圧を測ってもらう。体温も測るが、どちらも異常なし。健康そのものだ。……脳みそ以外は。
入浴も適当に済ませて売店に行くことにした。Tシャツにジャージのボトム、そしてスリッパといういかにも入院患者っぽい格好で売店へ行く。もう少し身なりに気を遣いなさいと母親はよく言うが、それができればとっくに退院している。
売店は外来のすぐ近くにある。亜樹の目的は買い物ではなく外来へやってくる人の人間観察だ。
何気ない振りをしてロビーを歩く。喫煙ルームに、疲れた顔をしたサラリーマン風の男性や、これからご出勤? なスタイル抜群の女性がいた。待合室には小さく音楽がかかっているのだが、これが幻聴じゃないかと思ってしまうので正直やめてほしい。まぁ、そもそも亜樹は外来と関係ないのでそんなことを申し出てもしょうがないのだが。
ソファの上で横になって、ブツブツ言いながら泣いている青年がいた。きっと外来患者だ。
ああ、きっと『お仲間』だわ。
あとは親や恋人に付き添われている人が数名。ストレートに羨ましいと思った。
(ばーか。あたしの、ばーか)
売店でジュースと雑誌を購入してから病棟に戻ると、亜樹の姿を見つけた看護師が走り寄ってきた。
「皆川さん、どこに行っていたの? 先生がお待ちよ」
「売店です。ちゃんと外出ノートに名前書きましたけど」
「いいから早く、ね。先生だってお忙しいのよ」
そりゃ忙しいかもしれないが、なんでここであたしが叱られるんだ? 今日は特に診察の予定は無かったはずだけど。
亜樹は不服にも、荷物を持ったまま神田医師のいる部屋まで急いだ。で、いざ部屋に行ってみると神田医師は足を悠々と組んで頬杖をついているのである。
なーにが“先生だってお忙しいのよ”だよ。
「昨日の夜勤帯だった田島さんから申し送りをされてね。皆川さん、あまり眠れていないんだって?」
「あんまり……」
そうか。だから臨時で診察なのね。
「頓服はヒルナミンとリスパダールですが……液体のリスパダールは錠剤に変えて、就寝前にしましょう」
「えっ、薬が増えるんですか?」
「その代わりに毎食後のジプレキサは抜きます。体重を気にしているんだって?」
「はい、副作用で食欲湧いちゃって困っているんです」
「全然、健康的でいいと思うんだけどね。食事は基本です。ちゃんと食べてね」
「はぁ」
「じゃ、いいですよ」
「はぁ」
はい、ありがた~い診察おしまい。
亜樹は却って疲れてしまい、ジュースを一口飲んでからまた横になった。何も考えずに、ただ横になっている。買った雑誌も適当にパラパラめくっているだけだ。
ふとゴミ箱を見た。中身がカラッポだ。そういや午後3時頃、毎日掃除のおじさんが来るのだ。もうこの中にはビリビリにしたメモ用紙はない。ちゃんと『ゴミ』として処分された。
(あーぁ)
無性にムシャクシャしてきて、これではいけないと思い、亜樹はプラスチック製のマグを持ってナースステーションに駆け込んだ。
「すみません、頓服ください」
近くの看護師に訴えた。
「皆川さん。どうかしたの?」
「イライラしちゃうの。何かチョーダイ」
「話、聞こうか?」
「それもお願いします。でも、薬、なんでもいいから……」
「落ち着いて。確かヒルナミンだったっけ?」
「リスパダールは常用じゃなくなったの。あの苦いの、嫌いだったから先生が……」
「今、用意しますね」
この若い看護師は、新人1年目って感じだな。出会う場所が違ってたら、友達になれたような気がする。担当の大路さんはベテランだけど、ちょっと怖い。この人の名前ってなんだっけ?
「はい、ヒルナミン1錠ね。せっかくだからデイルームに行きましょう」
「はい」
デイルームではテレビに釘付けになっている患者が数名(そんなに面白い番組がやっている時間帯ではないと亜樹は思うのだが)、それから麻雀におしゃべりにと、めいめい自由に過ごしている。
亜樹はこの何とも言い難い不安やイライラを解消するために話を聞いてもらおうと思っていたのだが、ふとテーブルの端で、真顔で分厚い本を読んでいる患者が目に留まった。
「皆川さん。どうかしました?」
「えーっと、えっと。何て言う名前でしたっけ?」
「あはは。私は太田ですけど。覚えてくださいね~」
いや、そうじゃないんだけど……でもまぁ、名前が判明したのでよしとするか。
「太田さん。あそこにいる患者さん、最近来ましたよね?」
「伊瀬さんね。彼がどうかしました?」
「えーと。ただちょっと気になっただけです」
「そう。皆川さん、さっきより少し楽になった?」
あ、と亜樹はこぼした。そういえば多少ではあるが気分は安定したように思える。
「まぁ、少しは。薬ってそんなに早く効くの?」
「人それぞれかな。プラセボだって場合もあるし」
「プラセボ?」
「病は気からってこと」
それを聞いた亜樹は、ため息をついて、
「気の持ち方一つで合唱が治まれば……薬はいらないでしょう」
と呟いた。太田さんはそうですね、と頷いてから、
「皆川さんはまだまだ休息が必要ってことですよ。洗濯も入浴も、自主的にできるようになったら外泊もできると思うし」
「んー……」
亜樹は頬を掻いた。別にもういい。家に帰れなくてもいい。
「ここにいれば三食出てくるし。エアコンは年中ついているから真冬でも半袖でよくて楽だし。外泊のメリットが見つからないです」
「そんなこと言わないで。ご家族も心配していると思うよ」
「それは無いな」
亜樹は即答した。
あのメモが脳裏に蘇る。
「どうしてそう思うの?」
太田さんには悪意はないのだろうが、その質問は亜樹のイライラを助長するのに十分だった。しかし、ヒルナミンが効き始めたんだろうか、あの押し寄せてくるような感情の津波はない。ただ、虚しさだけが残る。
(きた、この虚脱感)
「どうしてって……居場所がないから」
「そんな寂しいこと言わないで。少なくともここに私たちはいるから」
「はぁ」
まぁ、それがあなた達の仕事だからでしょうね。
「夕飯まで寝てていいですか? ちょっと疲れたので」
「いいですよ。夕飯になったら起こしましょう。今日の夜勤は長井さんです」
「どうもありがとうございました」
(はー。寝るしかないのもつまらんな)
「亜樹ちゃん、ちょっと来て」
ベッドにまさに横にならんとした時、同室の山野さんが声をかけてきた。
「どうかしたの?」
「いいから来て~」
亜樹は緩慢な動きで斜向かいの山野さんのカーテンを開けた。すると、
「旦那が持ってきてくれたのよ。今日、バレンタインでしょ。よかったら食べない?」
山野さんのベッドの上にはきれいな包み紙とチョコが入っていた。
「え、フツー、逆じゃない?」
そう笑いながら亜樹はハートを象った一個を口に放り込んだ。
「おいしーね」
「でしょ。ゴディバのよ!」
「うっわ、生まれて初めてかも。たまに街で見かけたけど、高くてね」
「私一人じゃ食べ切れないからね。もう星野さんや内藤さんにはあげたの」
「そう。ありがとう」
「亜樹ちゃん、どこ行ってたの?」
「ん、診察と、ちょっと」
「そう」
亜樹の『ちょっと』に突っ込んでこないところが、ここの居心地がいい理由の一つでもある。誰だって嫌だろう、わざわざはぐらかしたことを突っ込まれたら。ましてここは病院だ。誰だってそこそこの何かは抱えているんだろう。というか、病気そのものがその『何か』なんだろうか。
亜樹は山野さんにお礼を言うと、ベッドに横になった。
……つまんないなー……。
21歳ってみんな何してるんだろ?
学校に行って。
彼氏見つけて。
色々やって。
青春しちゃって。
少なくとも、こんな場所で横になってはいないんだろうな。
亜樹は携帯電話を手に取ると、新着メールが届いていたことに気づいた。差出人は、大学の友人だった。
『来週の木曜日、遊びにいっていい?』
表現が「お見舞い」ではなく「遊びに」というあたりがあの子らしいな。忙しいだろうに、わざわざ遊びにきてくれるのか。
『サンキュー。午後なら大丈夫だよ。待ってるね』
メールの返信を済ませると、亜樹は急激な疲労感を覚えて、薬の影響もあってかウトウトしはじめた。
目の前に階段教室が広がっている。
自分は一人、教室に取り残されている。
(みんな、授業はどうしたの?)
すると見慣れない教授が現れ、
「も~ぅ授業は終わったよ。お前だけが残された。お前は残渣だよ、沈殿したのさ」
口を開けて長い蛇のような舌をチロチロさせる。
気味が悪い。
……逃げたい。
亜樹が目を醒ますと、夕飯の時間が迫っていた。
(あー、よくわかんない夢みちゃった)
気を取り直して、デイルームに向かう。部屋を出た途端、目的地方面から奇声が聞こえた。
「いいいいいいいい!」
(なんだぁ?)
「だから! 俺は帰るんだ! こんな場所にいつまでいればいいんだ!」
(あ、Yシャツのイセさんじゃん)
「責任者を出せ。早くここに連れてこい!」
伊瀬さんは顔を上気させて看護師に喰ってかかっている。男性の看護師が伊瀬さんの胴体を押さえつける。伊瀬さんは、もがきながら、なおも叫ぶ。
「会社をクビになったらどうしてくれるんだ、え!?」
「伊瀬さん、ここは病棟です。静かにしてください」
あの看護師は確か……武田さんだっけ。腕っ節の強そうな顔しているわな。
「うるさい! 早く院長を出せ、直訴してやる」
「伊瀬さん、このままだと保護室か閉鎖行きですよ。それでもいいんですか」
「脅す気か? ふざけるな!」
「脅しじゃないです。取りあえず立見先生に診てもらいましょう。ね」
「いいいいいいいいいいいい!!」
(――変わった叫び方だな)
亜樹はカップ片手に、いたって冷静にその光景を観察している。他の看護師もやってきて、伊瀬さんの説得が始まった。
「勝手に俺の脳にレーダーを埋め込んだのは誰だ!」
「伊瀬さん、ちょっと面会室に行きましょう。皆さん驚いていますから」
「手術をするつもりか? 冗談じゃない!」
「違います。先生がいらっしゃるまで、ちょっと休みましょう」
亜樹のすぐ近くで、またしてもパチパチ、と手を叩く音が聞こえた。あのおばあちゃんだ。車いすに乗りながら手を何度も叩いている。そして何か呟いている。亜樹は少しだけ耳をすませた。おばあちゃんは蚊の泣くような声で、
「ありがたや……ありがたい、神幸、神幸」
と言っている。
シンコウ? あれが、ありがたい啓示ってか。
「いいいぃぃぃぃぃ……!」
伊瀬さんは半ば取り押さえられた犯罪者のような格好で、脇を抱えられて面会室に連れて行かれた。
(あーぁ、保護室行き決定かなイセさん。にしても人騒がせな)
亜樹はため息をついて、デイルームの椅子に座った。誰かが使用したままなのか、テーブルにコーヒーのシミができている。しょうがないので台拭きを濡らそうと洗面所へ向かった。
洗面所では、骨と皮だけのように細い手足にあどけなさを残した顔の女性患者が、鏡に映った自分の顔をじっと見つめている。亜樹は特に気にせずに彼女の隣の蛇口をひねった。
「亜樹ちゃーん。今の、聞いてたでしょ?」
「うん」
拒食症のリカちゃんだ。
「今の、私のせいなの」
「何が?」
「だから、彼が荒れちゃったの、私のせいなの」
「ふーん」
亜樹が興味を示さないことが不服だったろう、いかにも続きを話したがっているので、亜樹は彼女の意を汲んで、
「何かあったの」
と棒読みで言ってあげた。するとリカちゃんはガイコツが見えるほど痩けた頬を緩ませた。
「彼、私に告ってきたの。びっくりしちゃった。でも、タイプじゃないから断ったの」
「それで荒れちゃったの?」
「それだけじゃないの。私、本当のことを言っただけなのよ、『あなた、Yシャツにネクタイなんて、ここでは意味無いですよ』って」
「ふーん……」
そりゃ荒れたくもなるわ。亜樹は今朝の会話を思い出しながら台拭きを絞った。
リカちゃんは「みんな寂しいのね」と言い残して去っていった。きっと、リカちゃんは自分がすごく好きなんだろう。まぁ、もう少しふっくらしてたら、美人だろうな。
テーブルを綺麗にしてから、携帯電話をいじっていたら、『夕食の時間です。食前薬のある方は、ナースステーションへお越しください』と放送がかかった。もう6時か。
夕食はコロッケとメンチカツだった。揚げ物ばっかじゃん。またしてもあまり食欲が湧かない。しかし、血糖値が明らかに下がっているのが自分でもわかるので、頑張って全部平らげた。胃もたれを起こしそうな勢いだ。
夕食後の薬を受け取りにナースステーションへ行く。そこでは順番待ちの患者で行列が出来る。毎朝毎晩、これを見て亜樹は
(戦時中の配給みたいだ)
と内心で苦笑するのであった。
寝支度を整えると、すでに時刻は午後8時を過ぎている。消灯まで一時間たらず。この時間に、必ずメールをくれる人がいる。亜樹の兄である。
『件名:こんばんは』
これはもう、毎日この件名なのである。だったら省けばいいのに、とも思うが、几帳面な兄らしいとも思う。
『今日はどんな日だった? 俺は残業です。このメールも、会社から打っています。来週末なら会いに行けると思う』
来週末か……今日がまだ火曜日だから、全然先だ。
返信、返信。
『ありがとう。楽しみにしているよ。お仕事お疲れさま。みんなによろしく』
みんな、とは、すなわち兄以外の家族、両親と妹を指している。発病以来、両親はもとより妹とも疎遠になった。唯一わかってくれるのは兄だけだと亜樹は感じている。
本当はメモのことを兄に伝えたかったが、それは兄の苦悩の種にしかならないと、思いとどまった。
夜9時になると、何の予告も無しに消灯される。廊下と部屋は常夜灯しか点かない。睡眠薬を飲んだ亜樹は、同室の山野さんたちに
「おやすみ」
といつも通りに挨拶してからベッドに潜り込んだ。
はーぁ。つまんない一日が終わろうとしている。
寝て起きたら、またこの繰り返しかな?
明日は作業療法がないし、どうしたモンかね。
イセさん、そういやどうなったんだろう。どうでもいいけど。
「…いー、ぃぃ…」
亜樹はポソリと伊瀬さんの叫びの真似をした。それが妙に似ていて、自分でも可笑しかった。
「くくっ」
笑い声は、静まりかえった病室にやけに響いた。少し虚しくなった。それで、そのうち眠りにつくのである。いつものことだ。睡眠薬が効いて、そこいらの人よりよほどグッスリ寝られる。
「あー……」
午前5時半、キッカリに目を醒ました亜樹は、天井を見上げたまま呟いた。
「……いーぃぃ……」