第十三話 過日の嘘(六)声

美奈子が小鳥のさえずりで目を覚ますと、心地よい日差しが簡易ベッドの足元に差し込んでいるのが見えた。こんな優しい光は、久しぶりに見た気がする。まるであたたかかった祖母のひざの上のようだ。

美奈子はその光に触れようと、体を起こした。すると、なんとも香ばしくかぐわしい匂いが漂ってきた。扉が開いたかと思うと、ほぼすっぴんのメイが顔を出し、快活に「おはよう!」と声をかけてきた。

「あ、おはようございます」
「もうすぐできるよ、エミちゃん直伝パンケーキ。 朝はもう冷えるから、そのパジャマの上にハンガーにかかってるカーディガン着ておいで」
「はい」

久々に夢を見た。へんてこな夢だった。よくわからないけれど、なんだか悲しい夢。寄り添っていた男性は、泣いていた? 逆光でちゃんと見られなかったけれど。

店内スペースに足を運ぶとすぐ、夢のことを考えるのがもったいないくらい、匂いからして美味しそうな焼き立てのパンケーキが美奈子の目の前に並べられた。

「わぁ!」
「途中でフォークを使ってその黄身を少しずつ潰して食べてみて。味変するよ」

半分ほど食べ進め、メイの言ったとおりにパンケーキにのせられたポーチドエッグをつつくと、絶妙な火加減で仕上がった黄身がとろりと絡まり、まろやかな塩気がパンケーキ生地の甘さと相まったものだから、美奈子は口いっぱいに頬張ったまま思わず「おいひ〜い!」を連呼した。その様子を、メイは嬉しそうに眺めている。

「そこまで喜んでくれると、作りがいがあるってもんだ」
「だって、おいしいです」
「でしょう。エミちゃんの得意料理だからね。私が一番弟子」

ふくふくと幸せそうな表情で、美奈子は付け合わせのミックスベジタブルをつついた。

「エミちゃん、喜ぶんじゃないかな? 自分のパンケーキをそこまで美味しそうに食べてくれる子がまだいること」
「『まだ』?」

メイは口を滑らせてしまったと一瞬顔をしかめたが、ナイフとフォークを皿の上に置き、唇に右人差し指をあてる仕草をした。

「ゆうべ、おしゃべりにつきあってくれたお礼ってわけじゃないけど」
「はい」
「占い師の勘がこう言ってるの。『美奈子ちゃんには、伝えなさい』って」
「なんですか?」

怪訝そうな顔の美奈子。しかしメイは確信をもってこんな告白をした。

「昔むかしの話。まだ木内ちゃんとエミちゃんが都心の病院に勤めていた頃ね。あの二人、息子さんを亡くしているのよ」


その日の朝、奥多摩よつばクリニックにはあまり積極的には歓迎されない来客がやってきて、木製の扉を何度も乱暴にノックしていた。外来開始時刻は十時だが、今はまだ九時前である。

窓口の支度と受付の拭き掃除をしていたベテラン医療事務の山口あおいが、小さくため息をついて玄関に向かった。もしかしたら相当具合が悪いのかもしれないけれど、こちらにも労働者の権利があるといものだ。少し勘弁してほしいと本音では思う。

扉を開けると、ずんぐりむっくりとしたボサボサ頭にくたびれたスーツを着た壮年男性が立っていた。

「すみません、受付開始は九時半なので、それまで中のソファに座ってお待ちいただけませんか?」

その男性はスーツの胸ポケットに手を突っ込むと、あおいに警察手帳を提示した。

「青梅警察署の若宮と申します。おたくの院長さん、もう起きてる?」
「警察?」
「昨日付で捜索願が出されている『高畑美奈子』さんという女の子を探しててね」

あおいは反射的に「アッ」と声を出してしまった。

「何か、ご存じですね」
「院長を、呼んできます!」

あおいが足早に入院棟の方へと駆けて行く。若宮と名乗った刑事は待合ロビーの隅に置かれたソファにどかっと身を沈めると、大きくあくびしたのちに短くため息をついた。

柱時計が勤勉に時を刻んでいる。あれは確か、あの二人が結ばれた時に先輩医師が贈ったと聞いたことがあった。

(幸せしか知らないっていうのは、不幸なことだと思うんだ。)

あの時の言葉が果たして本気なのか強がりなのかは、未だにわからない。知る必要もないし、知りたくもない。――『何も変わらないこと』を望むなんてのは、永遠を望むのと同じく傲慢以外のなんだというのだ。医者になるくらいオツムの出来がよければ、そんなことはとっくにわかっててもよさそうなものを。

「あー、若宮さん。ご無沙汰です」

紺色のポロシャツに綿パンという医師らしからぬいでたちの木内が、いつも通りのへらへら顔であいさつすると、若宮は鋭い眼光を彼にまっすぐ向けた。

「今だって医療法ギリギリで見逃してやってるんだから、下手なことはするなよ、木内」
「はいはい。いつも大変お世話になっておりますー」
「さっさと正直に言え。こっちも面倒は増やしたくない」
「事務の者から聞きましたよ。高畑さんですね。確かにウチの患者さんですけど、ここにはいませんよ」

若宮は咳払いをすると、タバコを吸うような仕草をして「ここも、吸えないの?」と舌打ちした。

「一応、ここ医療機関なんで。あ、でも呼吸器内科は隣町まで行ってもらわないと」

若宮は苦笑いする。こいつは昔から掴みどころがない奴だとは思っていたが、その人をけむに巻くような性格は現在も健在のようだ。

「で、心当たりは?」
「その前に、確認をさせてください。その捜索願は、本当に家族から出されたものですか」
「なんでそこを疑うんだよ」
「若宮刑事。っていちいち呼ぶのもわざとらしいか。若宮、これは捜査協力における第三者への個人情報の提供として受け取ってくれ」

木内はちらっとあおいのほうを見やった。あおいはその視線を察すると、「あっ、トイレットペーパー補充したっけ?」などと誤魔化しながら、その場から退場した。この臨機応変さにこのクリニックはこれまで何度も助けられている。あおいは貴重な戦力である。

他に聞き耳を立てている者がいないことを確認した木内は、イントラネットから引っ張り出した美奈子の電子カルテの画面を若宮に見るよう促した。

「まず、僕は昨日、彼女の家族つまり母親に何度も連絡を入れた。しかし繋がらなかった。次に、彼女の母親が積極的に捜索願を出すとは考えにくい。彼女は母親から徹底してネグレクトを受けているから」
「捜索願を出したのは、彼女の父親だぞ」
「それはありえない」
「なぜそう言い切れる」
「彼女の父親は、アルコール依存症で都内の精神科に入院しているからだ」


「どうせ、広瀬さんでしょう」

メイが奥多摩よつばクリニックからの電話の内容を美奈子に伝えると、先ほどまでのパンケーキの至福は一瞬にして吹き飛んでしまった。

「捜索願い? バカみたい。父親面したいだけじゃん」

メイは保留状態で電話の受話器を握ったまま、美奈子に問う。

「どうする? このままじゃ、誰かしらが何らかの濡れ衣を着ることになるよ」

美奈子の顔色がカッと赤くなる。拳を握りしめ、悔しさを一切隠すことなく、こう宣言した。

「冗談じゃないです。悪いのは私。いつだってそう。だから、ちゃんと警察に自分で説明します。病院に戻らせてください」

メイは電話口で「本人が、これからそっちに行くって」と告げ、受話器を置いた。それから、すっかりしょげている美奈子に向かって言葉を投げかける。

「『自分が悪い』という表明は、時として暴力よ。聞いた人に『そんなことないよ』って言葉を強要しているのも同然だから」
「別に、私はそういうつもりじゃ……」
「自分を責めて物事を済ませるのは卒業しなさいって言ってんの。そういうのを『欺瞞』っていうんだよ。OK?」

メイの言葉は辛辣に聞こえるが、どこかに不思議とぬくもりを感じた。ゆえに美奈子は、決して嫌な気持ちにはならなかった。それどころか、持ち前のしなやかさで今のメイの教えを心に刻もうと、両手を胸元に置いて深呼吸した。その様子を見たメイは、口角を艶やかに上げてほほ笑み、美奈子にもう一台の愛車である電動アシスト付き自転車の鍵を渡すと、彼女の頭をくしゃっと撫ぜ、

「美奈子ちゃん。自覚が足りてないみたいだから伝えるけど、あなたは、めちゃくちゃ魅力的な女の子だよ」

そう勇気づけて、美奈子を送り出した。この日の空は、突き抜けるほどの蒼をこちらへ向けていた。まるで美奈子のこれからに声援を送るかのように。


(わからない。わからないんだ。でも、「わからない」ことはわかってる。こういうのを「メタ認知」っていうんでしょう?)

裕明、また新しい言葉を覚えたのね。すごいね。

(別に褒めてほしいわけじゃないんだ。ただ、「わからない」から「わかりたい」。それだけのこと)

今、どんな気持ち?

(……暗い道に、ランタンが一個落ちていたんだ。僕がそれを拾おうとすると、それを手伝ってくれる手があった。その手はとても暖かくて柔らかくて。だから、僕は今たぶん、不安なんだと思う)

どうして不安だと思うの?

(だって、ひどく動悸がするんだ。その手の持ち主のことを考えようとすると、発汗と動悸がして、意識が飛びそうになる)

そう。ずいぶんと野暮な表現をするのね。

(え?)

教えてあげる。人はそれを、「恋」と呼ぶのよ。


▽つづく

第十四話 過日の嘘(七)邪魔者