ライブの出演順が近づくにつれ、真弓の緊張はマックスに達しようとしていた。明らかに顔がひきつっている真弓を見て、舞台袖でハルコが「大丈夫?」と声をかけるが、真弓は胸に手を合わせて微動だにしない。
涼介も不安になって、「おーい、大丈夫かー」と真弓の顔を覗きこむ。真弓はぶつぶつと歌詞を暗唱しているようだった。
「集中しているんだね」
中野がフォローする。真弓にとって、人生、初ステージ。緊張しないほうがおかしい。真弓の頭部には、香織お手製のリボンが飾られていた。香織曰く、「WWMのボーカルに相応しいキュートさ」を追求した結果だそうだ。WWMの大ファンである彼氏を持つ香織の言葉なら、間違いないだろう。そのリボンをハルコはえいや、と引っ張った。
「うわっ!」
我に返る真弓。
「何するんですか~」
「それはこっちのセリフ。もうすぐだよ、そんな仏頂面しないで!」
「ハイ……」
「大丈夫。何が大事か、ちゃんと真弓ちゃんは知っているはずだよ」
「へっ?」
ハルコがウィンクする。涼介も頷く。中野は、ウッドベースの最終確認をしていたが、
「WWMは、素敵な世界をつくる者。真弓ちゃんにしか作れない世界があるはずだよ」
そう言われて、真弓は今までのみんなとのセッションを思い出した。
ノリノリでギターを弾くハルコ。
リズムよくパーカッションを響かせる涼介。
そして、すべてを包み込むような音色を奏でるウッドベースのマスター。
そこに、自分の歌声が乗ってはじめて、bookmarkerが完成する。
広がっていく、無限の音色。音楽によって紡がれる世界。
―――楽しい。
そうだ、楽しいんだ。私は、今、楽しいんだ。
スポットライトが当たった瞬間、真弓は満面の笑みを浮かべた。
「こんばんは! bookmarkerです!」
ライブハウスに歓声が上がる。
「真弓ーつ!」「真弓ちゃーん」
客席から声援を送るのは香織と市川だ。真弓は頭から垂れているリボンの端をつかむと、うん、と気合を入れた。
「ぶっちゃけ、緊張してます!」
会場から笑い声が上がる。背後からも、ハルコの「きゃはは」という声が聞こえた。
「でも、今夜は思いっきりはじけます! どこにでもいそうな、女子大生がぁ~?」
客席も一斉に「がぁ~?」と合の手を入れる。
「ワンダーワールドを、作っちゃうよ!」
一気に盛り上がる客席。お酒の入っている客もいて、テンションは最高潮だ。
「じゃあ聴いてね! 一曲目、『アリスの栞』」
客席にどよめきが起きる。この曲は、トリに使われるのが常だからだ。
しかし、どよめきはすぐに喝采に変わった。中野のウッドベースが鳴らされた瞬間、会場の空気が一気に引き締まり、『世界』が作られていくのを、その場にいる誰もが感じていたからだ。
風は吹けども涙は去らぬ
命に限りがあればこそ
意味は自ずと生まれくる
愛してくれてありがとう
世界を愛してくれてありがとう
痩せた肺から息を吐けば
きっとあなたは笑ってくれる
真弓の表情は、本番前の緊張が嘘のように晴れ晴れとしていた。心の底から、楽しんでいた。この場を、このセッションを、この世界を。
「愛してくれて! ありがとう!」
『アリスの栞』のカフェスペースの一角で、iPadに向かって真剣な表情をしていた彰だったが、Ustream中継での真弓たちのキラキラした姿を見て、自分でも気づかないうちに口元がほころんでいた。
あぁ……。みんなは、俺がいなくてももう、大丈夫なんだな。
脇に置いたボードレールの詩集を取ろうとして、しかし彰は思いとどまった。ここでこれを開いてしまったら、また執着してしまいそうだったからだ―――真弓に。
秋子は、怒るかな。浮気な恋だと責めるだろうか。それでも、もう独りぼっちは、嫌なんだ。それに、自分のような「過去」がいつまでも「今とこれから」を縛り付けてはいけない。みんなには、明日がある。未来がある。だから――――
「最後の曲! オリジナルだよー! 聴いてね、『心の栞』!」
ライブ会場の熱気がさらに上がってきたところで、bookmarkerの出番はクライマックスを迎える。
彰は音楽以外の刺激をシャットアウトするために、ヘッドフォンをつけたまま、瞳を閉じて、ボタンを押した。聞こえてくる、真弓の澄んだ歌声。
あなたを記憶にブックマークして
私は未来を生きていくあなたのこころをチェックメイトして
私はこれからを生きていく苦しみの向こうに光があるのなら
私は闇をも愛するでしょう悲しみの果てに喜びがあるのなら
私は涙をも愛するでしょうあなたを記憶にブックマークして
私は未来を生きていく生きていく
生きていく
ライブが無事に終わり、メンバーはその帰途、誰も何も語らなかった。黙ったまま電車に乗り、黙ったまま駅から歩き、黙ったまま『アリスの栞』へとたどり着いた。
「ただいま」
中野が言う。店内は真っ暗だったので、中野が間接照明をつける。薄明りの中、返答する者はいない。
わかっていた。わかっていたし、みんなそれを望んでいた。けれど。
真っ先に声を上げたのは、ハルコだった。
「あの野郎! あっさり消えやがって!」
涼介は、涙声のハルコの肩にそっと手を置いた。ハルコはその手をぎちっと握り返した。
「80年以上もココにしがみついてたくせに、もう! さよならくらい、言わせろ!」
「ハルコ……」
中野は手を合わせた。きっと、これでよかったのだ。……きっと。
真弓は黙ったまま、カフェスペースへと上がった。iPadとヘッドフォンが置かれた机に向かう。彼が長らく、過ごした場所。
「………」
ボードレールの詩集。その上に、走り書きのようなメモで、メッセージが遺されていた。きっと、最後に彼が伝えたかった言葉だろう。よく見てみると、そこには、
『探さないでください』
と書いてあった。
「ん?」
どういう、意味だろう。探すも何もないじゃない―――
「えーっ!?」
階下から、中野の声がした。
「そりゃないでしょうよ!」
ハルコのキーキーとした悲鳴も聞こえる。
「なんだよそれ!」
涼介のあきれたような言葉もあった。
真弓が急いで階段を駆け下りると、そこには、メンバーに取り囲まれながら、カーテンを体にくるんだ彰の姿があった。明らかに、隠れていた格好だ。
「ちょっと、どういうことよ」
ハルコが問い詰める。
「俺たちのライブは、成功したはずだぞ」
涼介も首をひねる。
「彰。どういうことか、説明してくれ」
中野はやれやれ、といった口調で言った。
「それが、なんというかだな……。方法が、わからなくて」
「方法?」
訝しがる中野に対し、彰は、ぽつりとこぼした。
「マスター、恥を承知でお願いがあるんだが」
「なんだ、この際、何でも言ってみなよ」
「『HOW to 成仏』って本がもしもあったら、入荷してほしい」
メンバーが盛大にふき出すのにも構わず、真弓は彰に駆け寄り、
「じゃあ、その本が見つかるまで、一緒ですね!」
そう言って最高の笑顔を見せた。
「いらっしゃいませ!」
東京の西の隅っこにある、『アリスの栞』では、今日も真弓の元気な声が響く。『彼氏との海外旅行』へは行けそうにないが、ステージという名の夢に立つ真弓の、騒がしくてちょっと不思議な青春は、まだまだ続いていきそうだ。
おしまい。