悠太の告白に対して、仕事から帰ってきた兄はネクタイを外しながら、少し考える素振りをしたかと思いきや
「そうだ、温泉に行こう」
と言った。
日本人は昔から、温泉で傷や病を癒してきたのだと。しかしながら、悠太の病気にも湯治は効果があるのか、甚だ疑問だ。バカにされているとさえ感じた。だから、悠太はその言葉に腹を立てた。
「兄さん、これは大事な話なんだよ」
「わかってるさ。でも今日は早く寝ろよ」
「…………」
ふざけてる。マトモに話を聞いてくれない。なにが温泉に行こう、だ。
ところが、兄は本気らしかった。翌日、仕事帰りに駅前の旅行会社に寄りパンフレットをたくさん持ち帰ってきて、
「俺のオススメは断然、四万温泉だ」
そんなことを言い出したのだ。兄はマイペースにコタツの中でみかんを食べながら、
「中之条駅からバスで四十分。ひなびた、なかなか味のあるとこなんだよ。スマートボールって知ってるか? あれはハマるとヤバい面白さなんだ」
そう言って真剣にパンフレットのページをめくっている。眉間にしわを寄せ、蛍光ペン片手に何やら書き込んでいるようだ。
「あのさ、兄さん」
悠太は半ば兄を制するように声を出した。正直、疑心暗鬼になっていた。兄はわかっているのだろうか。たった一人の肉親である弟が、医者から『統合失調症』と診断された現実から、目を逸らしているのではないだろうか、と。
兄はみかんを口に放り込み、
「旅館は、なんてったって料理で選ばないとな」
「……兄さん。どうか答えてくれ」
悠太は勇気を出して言った、つもりだった。自分の病気をどう思うかと。しかし、兄は真顔で、
「四万温泉は塩化物・硫酸塩泉だ。胃腸病・神経痛・リウマチ・皮膚病・擦り傷・切り傷・アトピー性皮膚炎に効くらしい。飲むと、胃腸病や食欲増進にいいらしいぞ」
「そういうことじゃなくて」
「しゃあ、旅館の料理か」
「……違うって」
「じゃあ、何だ」
「……―――っ」
悠太はたまらなくなって、兄が広げていたパンフレットの上に何種類もの錠剤をぶちまけた。途端にリビングに、ぎくしゃくした沈黙がおりる。時計の秒針の進む音だけが部屋に響く。
「………悠太」
「これを見ろよ!」
悠太は兄の言葉を遮るように叫んだ。薬を指さし、
「これ見て、何も思わないのかよ!? 俺、コレがないともうダメなんだよ。きっと、どうかしちまったんだ。効能? 幻聴にてきめんに効くらしい、その代わり副作用でカラダにガタがくるかもしれないってさ」
「…………」
「何か言えよ、お前の弟のことだろ!」
兄は散らばった錠剤を回収しながら、長く息を吐いた。
「わかった。じゃあ、言わせてもらう」
図らずも叫んでしまった気まずさに、唾を飲み込む悠太。兄はまっすぐに悠太を見て、
「温泉に行こう」
「ふざけやがって!」
カッと憤る悠太に、しかし兄は冷静沈着な面持ちを崩さない。
「ふざけてない。ふざけてるように見えるんだったら、それはお前の明らかな誤解だ。いい機会だから言わせてもらうが、俺がお前に関してふざけて物事を考えたことなど、今まで一度もない」
兄は薬のヒートをぱちん、と指で弾いた。
「病気、つらいか」
「当たり前だ」
「薬が一生、必要なのか」
「ああ」
「それは、俺もつらいな」
「なんでだよ。俺のこの苦しみが理解されてたまるかよ。幻聴を聞いたこともないくせに!」
兄は喚く悠太の目をしっかり見ながら、ハッキリとした口調で言った。
「絶望するのは自由だ。お前の感情にまで浸入しようなんて思わない。お前の痛みや苦しみは、全部お前のものだからな。だが、俺にはお前を勝手に心配する権利がある。好きなだけお前を想う権利がある。一緒に温泉に行く権利もある。どうしてか分かるか?」
その勢いに、悠太は息を飲んだ。
兄は静謐な中にもどこか鬼気迫る声色で、こう断言した。
「俺たちは、家族だからだ」
「…………」
「これ以上の理由があるか」
「…………兄さん」
「俺は、お前の家族だ」
それを聞いた悠太の目に、自然と涙が浮かぶ。
「綺麗事は言わない。今更だ。しかし、だ。俺は既に有休を取った。だから温泉に行くのは、我が家の決定事項だ」
そう言って口角を上げる兄に悠太は、
「……強引だな」
と頬をかいた。兄は、
「まぁ、性根変える理由がないからな」
そう言ってニヤリと笑う。
頬に兄の大きな手を添えられた悠太は、それからしばらく、気のすむまで泣いた。
何種類もの錠剤は、二人に無情に現実を知らせる。悠太の病気は、現代医学では完治しないのだ。だが、それでもいいと、いや、それだからこそ、わかったことがあるとすら、いつか、思える日が来たら―――。
「そうだ、温泉に行こう」。
これ以上の愛の言葉を、悠太は知らない。