私は、かの詩人に憧れて、旅人が帰ってくるのずっと待っていたけれど、季節を2回繰り返してようやく戻ってきた旅人はもうとっくに壊れていた。
「お土産話をちょうだいな」
私は、彼が帰ってきたら飲もうと決めていた紅茶の葉を開けてやった。それは彼が旅立つ前に、自分を忘れてほしくないと彼がブレンドした、とっておきだ。
旅人はまず、オンボロになったマントを脱いだ。黄砂が部屋に舞った。ずっと身に着けていたのだろう、とくに裾の部分がほどけている。それから古くなった靴も脱いでゴミ箱に捨てた。
「さぁ、お茶を飲みましょう」
私が差し出すと、旅人は嬉しそうにカップを手にとり、飲むのかと思いきや中をじっと見つめている。冷めてしまうから飲んだらいかが? ときいても彼はじっと紅茶を見つめている。
私は沈黙して紅茶を飲んだ。アールグレイとセイロンのブレンドされた不思議な香りが鼻に心地よい。
「地球に絆創膏を貼ってきました」
唐突に旅人はそう告げた。
「かわいそうに。擦り傷、切り傷、火傷。地球は悲鳴をあげて泣いていました。私にできることと言ったら、持っていた絆創膏を貼ってやることくらいしかできないのです。ですので、ありったけの絆創膏を、あの荒野と、大都会の真ん中と、あと私の頬に貼りました」
「そうなの」
「それでも地球は泣きやまない。雨は地球の涙ではありません、悲鳴です。ああいう声で、地球は泣くのです」
「ザァザァ泣くのね」
旅人は、いいえ、と首を振った。
「それは花と蝶が泣く声でしょう。強い雨に日に、特にアゲハ蝶などは撃ち落とされていました。綺麗でした」
「そう」
旅人はふらりと立ち上がった。
「旅は終わらせなければならない。いつか、どうしたって幕が下りてしまうから」
「それは『死』のことですか」
「いいえ。私はもう一度、旅に出ます。今度はもっと遠くへ……誰かが、何かが、泣いていないかどうか探しに行きます」
「せめてもう少し休んでいかれては? 私はあなたに会えるのを楽しみにしていたのに」
「ハハ、ハ。私に待ち人などおりません。誰も待たせておりません」
「そんなに紅茶が美味しくなかった?」
「あの音が聴きたい」
私はすぐにピアノに向い、ショパンのエチュードを弾いた。
「そう、その曲がいい……」
旅人は心地よさそうに目を閉じて、そのまま眠ってしまったかと思いきや、
「さようなら」
そう言い残して、肉体だけを残して静かに旅立った。
もう二度と帰ってくることのない彼のために、私は毎日この曲を弾くことにした。
あの紅茶は夕方に飲むようにした。
雨の日には蝶々を思って胸を痛めた。
何より、彼がもう私のことなど忘れて、地球を労わっていることがどこまでも悲しくて、どうしようもなく誇らしくて、私はもう二度と泣くことはなくなった。