第二話 心臓の形(二)口笛

 

彼は機械的な動きで銀のボウルの中の巨峰を一粒ずつ指でつまみ、隣に置かれた白い皿に移し替える。4秒間で一粒移すのが、だいたいの目安だ。呼吸をまったく乱すことなく、しかしどこか切迫した空気を醸し出しながら、「作業」は行われている。

ボウルに入れられた巨峰の中には、極端に粒の小さいもの、傷がついてそこから劣化しているもの、変色しかけているものが時々見つかる。そういう「不良品」を指でつまむとき、彼の目は少しだけ細められる。

ああ、君たちも、誰にも必要とされず棄てられるという意味で自分と一緒なんだな。そっか。じゃあせめて、自分が愛してあげようか。

彼は表皮がめくれた一粒の巨峰をつまんだ親指と人差し指に、眼前でためらいなく圧力を加えた。果肉が潰れたところで、音が立つことはない。「不良品」が飛散させた汁をまぶたにしたたかに浴びた彼は、それを疎ましげに反対の手の甲でぬぐう。次に、その手をゆっくりと舐め始めた。

最初こそほのかな甘酸っぱさを感じられたが、すぐにその味覚はただの皮膚のそれになる。つくづく、つまらないと思う。つまらないと思うことをつまらないと思う。キリがないものには、価値も意味もない。彼は、誰に教わるでもなくそのようにわきまえている。

「作業」の手を止め、天井を仰ぐ。真っ白に塗装されたそれは、ただそこに在るだけでじゅうぶんに冷たい。次に壁の四隅に目をやる。やはり白いそこには、以前一度だけアンリ・マティスの「マグノリアのある静物」の贋作を飾られたことがあった。

いや、贋作どころか白系統の色彩で模倣されたそれは、作者への侮辱ではないかと伝えたところ、「ごめんね」と謝られて撤去された。別に謝ってほしかったわけではないけれど、絵なら自分で描くのでそんなものは不要だと思う。

さながら古代宗教の儀式だ。彼は神聖な表情すら浮かべて、再び静かに巨峰を皿に移し替えはじめた。

突如、午後3時を知らせる柱時計の鳩の声によって「白い部屋」を支配していた静寂は破られてしまう。「パッポー」と三回鳴いて引っ込む、その間抜けな姿に苛立った彼は、玉のように美しい粒の巨峰を床下に落としてしまった。

「あっ」

傍観者はいない。彼は首をかしげてそのまま硬直する。ゆえに一向に落ちた巨峰を拾おうとはしない。

そうだね。そうやって堕ちて穢れたなら、君もおんなじになれるんだ。

しばらくぼーっとその新しい「仲間」を見つめていた彼は、やがて長く息を吐いた。

部屋の調度品は全て白色で統一されている。そこに奇妙さや違和感を覚えるという感覚は、すでに「彼」には存在しない。この場所は部屋というよりも「箱」という表現が相応しいかもしれなかった。

この箱の中で、彼は生きている。生かされている。

午後3時はこのクリニックでは面会の終了時間だ。今日もまた、「彼女」がここにやって来ることはなかった。いつものことだ。わかっている。わかってはいても、彼は自分の胸に深く穿たれた空白を埋める術を知らない。

空白は容赦なく徐々に浸食し、彼を「正常とされる範疇」から追い出そうとする。そのえもいわれぬ恐ろしい感覚からどうにか逃れようと、彼は胸元で両手を組み、何かに祈るような格好でベッドにそっと仰向けになった。

「どこにいるの」

この問いに答える声はない。だから誰も彼を許すことはないし、そもそも「彼」を認識するものは、ここにはいない。

祈るたびに、それがまるで無意味で、しかも無味無臭な欺瞞に過ぎないのだと痛感させられる。届かない祈りなど、独善の域を出ない。そのようなことは、彼はとうに身に沁みて理解している。理解しているからこそ、空白がひたすら、彼の中に拡がっていく。

彼は、現実から脱出する手段の一つとして、不器用に口笛を吹くことがある。

……Over the Rainbow……

落ちた巨峰だけが、彼の口笛を聴いている。
落ちた巨峰だけが、彼の孤独を知っている。
すなわち、誰も彼の孤独を知らない。


▽つづく

第三話 心臓の形(三)扉