序章 神保町

いやに暖かい風の吹いた日、芽吹きかけた衝動を噛み殺しながら、彼は神保町を歩いていた。古本屋とカレーとサブカルチャーの香り漂うこの街に、彼は自分を遺棄する場所を探していたのだ。

その両目には諦観とひと匙の狂気のなり損ない。銀色をしており、端から錆びてきている。その錆は彼の歩んできた、いや歩まざるを得なかった道そのもののようだった。

年季の入った喫茶店でナポリタンを頼んだ。ついでに、なんとなくメロンソーダを頼んだ。鮮やかな緑色を想像していたのに、運ばれてきたのは青色だった。しかも、店内の薄暗い照明のせいで、それはややくすんで見えた。

彼は内心で舌打ちすると、ナポリタンをすべて平らげてからメロンソーダに口をつけた。甘い。あまりにも、甘い。

「甘い」という言葉が良くない意味で使われるのは何故だろう。「Amae」という概念が心理学ではそのまま「あ」「ま」「え」として存在するらしい。そんなことは実はどうでも良くて、甘いこのメロンソーダを飲み切る自信がなかった彼は、出来心でテーブルに置かれていた食塩をふりかけた。甘過ぎればその逆をいけば良い。それだけのことだ。

そう、要領さえ得てしまえば、人生ほど退屈な時間はないと彼は本気で感じていた。要領を得るまでがつまらない地獄で、得たあとがただの暇つぶしだと。

しかしこの暇というのが手強い。このメロンソーダを飲み干すよりも恐らく難しい。

誰にも頼らず甘えずに生きていくなんて、きっと誰にもできやしない。だから自分にもできない。そういう文脈で、もはや惰性でしかこの心臓は動いていないと、彼は信じていた。しかし、塩入りメロンソーダは意外と美味しかった。よく考えれば、これはソルティードッグに似ている。溶け出したバニラアイスとの相性も良く、彼はペロリとメロンソーダを飲みきってしまった。

さて、どうしよう。これは想定外だった。

喫茶店を出た彼は、自身の唇をひと舐めした。甘じょっぱさが口に広がった。ひと昔に齧った、「反作用の法則」を少しだけ思い出した。

甚だ悔しいが、この街には己を遺棄できそうにないと、彼は白旗を上げた。そう、もう少しだけ、何かを信じ何かに縋って、たとえそれが無様でも、息をしていこう。そう決めたのだった。

彼は白山通りで深呼吸すると、影を引きずったまま三省堂書店へと姿を消した。
直後、みたび季節を勘違いした生暖かい風が神保町を吹き抜けた。


ひどいふられ方をした。私はしばらく神保町にあるロイヤルホストの窓際の席で、茫然自失と座り込んでいた。

「明太子とホタテの和風パスタでございます」

可愛らしい女の子が運んできてくれた。甚だ悔しいが、どんなにショックな失恋をしても、おなかは空く。私はのそのそとフォークを取ると、一口、パスタを頬張った。やはり悔しいが、美味しいと感じてしまう。……なんだろう、なんなんだろう。私は自分が本当に可哀想で、それでいて全然かわいくなくて、ただただ虚しくて、その虚しさを丸ごとすするようにしてパスタを食した。涙の一粒も流せればまだ良かったのかもしれないが、そんなものは都合よく出てこない。女優じゃあるまいし。

カラになった途端、あっさりと下げられるパスタの皿。汗をかいたグラスだけが残った。私はしばらくそれを見つめていたのだが、ふと視線を感じて顔を上げた。

するとそこには、極めて暗い目をした男性がこちらを見下ろしているのである。

「……何でしょうか」

私が戸惑い気味にそう問いかけると、男性は、

「生きていたって、いつか死ぬから」

そうボソッと答えた。

「はい?」

その人は、死んだような目をしていた。そう思った途端、その人はこんなことを言った。

「あなた、僕と同じ、目をしていますね」
「はい?」

何を言っているのだろう。

「今度の金曜日、新宿のアルタ前で待ち合わせませんか」
「……」

よくわからない。わからないが、ふられたてホヤホヤの私にはとても魅力的な言葉に聞こえた。私は、ようやく絞り出すような声で返答する。

「いいですよ……」
「では」

それは、死にたがりの「彼」と、それを阻止する「私」との、デートという名の勝負のはじまりだった。

第一話 檸檬