第四章 その手から零れ落ちる羽

【某年某月 獄中での手記】
いつから、僕は自分の影に囚われ、自分の翳に飲まれたのだろう。それとも、これが僕の本当の姿だったのだろうか? だとしたら、きっと僕は幸せだったんだろう。
彼女が教えてくれたのかもしれない、僕の知らない僕のことを、僕に。早くお礼が言いたい。

【1990年代の都内某所】
適度の悲しみは人を成長させる糧になる。人生に刺激を与える一種のスパイスだ。気持ちが低空飛行で困るという人がいる。しかし僕は、それが丁度良いと思う。なぜなら、それくらいの方が謙虚でいられるし、これから上がれるという「伸びしろ」があると考えるからだ。
「もう駄目だ。死にたい」
と口にする人も多い。それでもいいと思う。言葉にして吐き出せるうちは、それ自体が“大丈夫”のサインだからだ。
僕は自分の人生を語ることをあまりしない。必要ないし、気恥ずかしいという本音もある。それでも、相手によってはそれが必要なこともあって、そういう時僕は、必要以上にネクタイをきつく締める癖がある。
「大丈夫です」
そう言う人に限って僕は心配になる。
目の前にいる彼女は、僕が今まで出会った中でも特に印象に残っている子だ。僕のよく知らない遠くから、毎週電車に乗ってやってくる。

その時の彼女は、微笑んでいた。
「私は、もう大丈夫です」
「なぜ、そう思うのですか?」
僕の質問に、彼女は少し沈黙した。
「きっと、おかしいとおっしゃいます」
「そうなんですか」
「ええ」
そう言って再び彼女は沈黙した。沈黙は重要なファクターになる。その時の仕草や目つきなどを観察すると、それが有効な判断材料になるのだ。
「………」
彼女は、ふーっと息を吐いてから、長い髪の毛を弄び「うふっ」と声を出して笑った。僕からは敢えて声はかけない。相手の自発的な発言を促すために、頷きを利用することはある。僕は、彼女の目を見ながら首を一回、縦に振った。
彼女は伏し目がちに、瞳を潤ませている。別段泣いているわけではなさそうだ。むしろ、その微笑を見る限り、幸福感すら感じさせる。詩でも朗読するように、彼女は言った。
「私は幸せです、とても」
「というのは?」
「昨日の夜、天使が羽をわけてくれたんです。だからもう私は、飛べるんです」
「………」
「ね、おかしいでしょう」
「ご自分で『おかしい』という自覚がおありなら、大丈夫なんですよ」
「ええ、私は全然平気です」
「……、少し疲れてらっしゃるみたいですね」
彼女はその言葉に、否定の意思を示した。
「もう大丈夫なんです。これ以上だらけたら、私はダメになってしまう」
「だらけるんじゃないですよ。休養です」
「嫌です」
「焦りは禁物ですよ」
彼女は焦っている。強大な不安に襲われている。急にそわそわと手を中空に動かし始めた。
「2時はまだかしら……」
「夜は眠れていますか」
「世界が滲んでいく」
「睡眠はいかがですか」
「なんてだらしない……」
「どうしましたか」
僕は質問を投げかけることで、彼女の思考の解体を避けようとした。が、彼女は目の前にいるようで、全然違う世界にいるようだった。浮遊感すら与えるような、不思議な感覚。彼女は、笑っている。小さな肩を揺らして、笑っている。
「……」

【後に発見された彼女の詩】

からっぽの小さな鳥かごに両手を取られたのは私
見上げる月に照らされて両目が赤く光ってる
かわいい天使の着地地点

優しいギターの旋律と逆回転する柱時計が
2時を指し示すとき
私自身も天使になれるの

【最後の光景】

「もう大丈夫です」
そう言って帰った日の晩、彼女の家族から電話があった。一糸まとわぬ姿で、家を飛び出したとのことだった。
嫌な予感ほどよく当たる。僕は冬の街を彷徨う彼女の姿を想像して、息を飲んだ。
天使の羽のように舞い落ちる雪が僕の視界を塞いだ。
やがて僕の目の前で、彼女の目にだけ映っていた天使の、禍々しい両眼と同じ色が、雪景色を穢すように広がった。僕の中で、何かが弾け飛んだ。
「死にたい」
「もういやだ」
「どうしたらいいのかわかりません」
「苦しいよ」
「辛いです」
「助けてください」
僕が日々聞く言葉たち。それがどうも、あれ以来僕にはこう聞こえるのだ。
「私は、飛べますか?」

【だから、願いを叶えてあげよう】

「篠畑先生」
僕は呼ばれて振り返る。
「……どうしましたか?」
「助けてください」
そう言われて、僕は微笑む。――あの日の彼女を思い出しながら。

第五章 その面影