とある雨の夜、営業の終わったカフェの店内の薄明かりの中に、ぼぉっと彰が現れた。
「やぁ、こんばんは」
マグカップを磨きながら中野が挨拶する。だが、彰はそれに応えない。
「どういうつもりだよ」
「何が?」
彰は剣呑な表情で、中野を睨んだ。
「まさか、あの詩をあの娘に教えるわけじゃないだろうな」
「……どうだろうね」
飄々とした中野の受け答えに、彰は感情を露わにした。
「おかしいと思ったんだ。あれだけアルバイトなんて雇うのを拒否してた人間が、急にあんな」
彰の言葉が一瞬つまる。
「……あんな、平々凡々な娘を雇うだなんて」
中野は、彰の眼光など何処吹く風で、次のマグカップに手を伸ばした。
「理由なら、彰。君が一番わかってるんじゃないかな」
「………」
街灯の明かりが、雨で滲んで窓に映る。風も少し出てきたようだ。
「明日から、寒さがぶり返すらしい。桜はすっかり散ってしまったからいいけど、この頃は春らしい春が来ない気がしないか」
彰は尚も食い下がる。
「あれは、あの詩は、あんなぽっと出の娘には教えないでくれ。秋子が悲しむ」
中野はふー、と長く息を吐いた。タバコを吸っていた頃の名残だ。
「『風は吹けども涙は去らぬ』か……」
中野がそう呟くと、彰は鬼のような形相で、「やめろ。そんな易々と口にするな」と語気を強めた。しかし、中野は首を少し傾げるばかりだ。
「だったら、俺を呪い殺せばいいのに」
「そんな器用なことができれば、とうにそうしているさ」
「君を裁ける法律や事物は、残念ながら今の日本にはない。たぶん、この先も未来永劫、そんなものはできない」
「……」
中野は、彰をたしなめるように言葉をかける。
「なぁ、『諦め』と『赦し』は似てると思わないかい」
「――全く思わない」
言い捨てた彰は、そのまま姿を消した。
4月も下旬になったというのに、その日はコートが手放せない陽気となった。香織は実家暮らしなので、電車で大学の最寄り駅までやってくる。改札で手を挙げた真弓は、
「おーい、こっちこっち」
と声をかけた。すると、近づいていた人影は二つ。香織と、それから、
「えっと……」
見たことのない男性が、一緒にやってきたのだ。どちらさま? と香織に目配せすると、香織はえへへ、と笑った。
「市川先輩。同じ軽音楽サークルのひと」
「え、まさか……」
真弓が思わず市川を指さすと、香織は頷いた。
「か・れ・し」
「えーマジか、マジかぁー!」
頭を抱える真弓に向かって、
「聞いてるよ。真弓ちゃんは香織と同じ文学部なんだよね。俺は社会学専攻。よろしくね」
と市川が爽やかに挨拶する。真弓はぎこちなく「どうも……」と返すのが精いっぱいだった。
(ダメだ……さっそく友人に先を越された……。私の10代は、リアルに無味無臭のまま過ぎるんじゃないだろうか……)
意気消沈して自転車を押しながら歩く真弓、対照的に明るい表情の香織と市川。
(なんだろう。なんだろうか、この感じは!?)
モヤモヤが凶悪化してイガイガに化けたような、喉の奥の引っかかり。これは恐らく、いや100%、嫉妬だ。こんな感情を抱いてしまう自分が、真弓はとても嫌だった。
「ここだよ」
棒読みで、『アリスの栞』へ着いたことを真弓は二人に伝えた。
「わー。落ち着いた感じで素敵だね」
「だね」
微笑みあう香織と市川をよそ目に、真弓はドアを開けた。
「こんにちは」
本屋スペースには立ち読み客が数人いたが、カフェタイムが始まって間もなくだったので、そちらには先客はいなかった。中野が笑顔で出迎える。
「いらっしゃい。今日はお友達と一緒なんだね」
「はい、大学の友人です」
真弓が香織と市川を紹介しようとしたが、市川は店内に貼ってあった、とあるポスターにくぎ付けになっていた。
「すげぇ……!」
「どうしたの?」
香織が声をかけるも、市川は食い入るようにポスターを見ている。
「WWMの初期のやつだ。めっちゃ貴重じゃん……!」
中野が「へぇ」と感心する。
「ワンダーワールドメーカーを知っているのかい?」
その問いに、市川は顔を紅潮させて、興奮気味になった。
「知ってるなんてもんじゃないです。WWMがいなかったら、俺、音楽やっていないです」
「そうなんだ。若いのに珍しいね」
「父の影響で。ビートルズとWWMとで俺の血はできてます」
「そりゃ、すごいね。まぁ俺も似たようなものか」
「このポスターはほんと初期、デビューの頃のやつですよね」
「そうそう。まさに知る人ぞ知る、だよね」
笑いあう中野と市川。どうやら意気投合したようだ。
店内を見まわしていた香織だったが、気になってしょうがなかったのか、真弓にねだるように言った。
「ねぇ、この前真弓が話してた幽霊って、どこにいるの?」
香織のその言葉を耳にした中野の表情が、一気に硬くなったことに、この時、真弓はまったく気づいていなかった。
第八話 軽率 に続く