第七話 ポスター

とある雨の夜、営業の終わったカフェの店内の薄明かりの中に、ぼぉっと彰が現れた。

「やぁ、こんばんは」

マグカップを磨きながら中野が挨拶する。だが、彰はそれに応えない。

「どういうつもりだよ」
「何が?」

彰は剣呑な表情で、中野を睨んだ。

「まさか、あの詩をあの娘に教えるわけじゃないだろうな」
「……どうだろうね」

飄々とした中野の受け答えに、彰は感情を露わにした。

「おかしいと思ったんだ。あれだけアルバイトなんて雇うのを拒否してた人間が、急にあんな」

彰の言葉が一瞬つまる。

「……あんな、平々凡々な娘を雇うだなんて」

中野は、彰の眼光など何処吹く風で、次のマグカップに手を伸ばした。

「理由なら、彰。君が一番わかってるんじゃないかな」
「………」

街灯の明かりが、雨で滲んで窓に映る。風も少し出てきたようだ。

「明日から、寒さがぶり返すらしい。桜はすっかり散ってしまったからいいけど、この頃は春らしい春が来ない気がしないか」

彰は尚も食い下がる。

「あれは、あの詩は、あんなぽっと出の娘には教えないでくれ。秋子が悲しむ」

中野はふー、と長く息を吐いた。タバコを吸っていた頃の名残だ。

「『風は吹けども涙は去らぬ』か……」

中野がそう呟くと、彰は鬼のような形相で、「やめろ。そんな易々と口にするな」と語気を強めた。しかし、中野は首を少し傾げるばかりだ。

「だったら、俺を呪い殺せばいいのに」
「そんな器用なことができれば、とうにそうしているさ」
「君を裁ける法律や事物は、残念ながら今の日本にはない。たぶん、この先も未来永劫、そんなものはできない」
「……」

中野は、彰をたしなめるように言葉をかける。

「なぁ、『諦め』と『赦し』は似てると思わないかい」
「――全く思わない」

言い捨てた彰は、そのまま姿を消した。


4月も下旬になったというのに、その日はコートが手放せない陽気となった。香織は実家暮らしなので、電車で大学の最寄り駅までやってくる。改札で手を挙げた真弓は、

「おーい、こっちこっち」

と声をかけた。すると、近づいていた人影は二つ。香織と、それから、

「えっと……」

見たことのない男性が、一緒にやってきたのだ。どちらさま? と香織に目配せすると、香織はえへへ、と笑った。

「市川先輩。同じ軽音楽サークルのひと」
「え、まさか……」

真弓が思わず市川を指さすと、香織は頷いた。

「か・れ・し」
「えーマジか、マジかぁー!」

頭を抱える真弓に向かって、

「聞いてるよ。真弓ちゃんは香織と同じ文学部なんだよね。俺は社会学専攻。よろしくね」

と市川が爽やかに挨拶する。真弓はぎこちなく「どうも……」と返すのが精いっぱいだった。

(ダメだ……さっそく友人に先を越された……。私の10代は、リアルに無味無臭のまま過ぎるんじゃないだろうか……)

意気消沈して自転車を押しながら歩く真弓、対照的に明るい表情の香織と市川。

(なんだろう。なんだろうか、この感じは!?)

モヤモヤが凶悪化してイガイガに化けたような、喉の奥の引っかかり。これは恐らく、いや100%、嫉妬だ。こんな感情を抱いてしまう自分が、真弓はとても嫌だった。

「ここだよ」

棒読みで、『アリスの栞』へ着いたことを真弓は二人に伝えた。

「わー。落ち着いた感じで素敵だね」
「だね」

微笑みあう香織と市川をよそ目に、真弓はドアを開けた。

「こんにちは」

本屋スペースには立ち読み客が数人いたが、カフェタイムが始まって間もなくだったので、そちらには先客はいなかった。中野が笑顔で出迎える。

「いらっしゃい。今日はお友達と一緒なんだね」
「はい、大学の友人です」

真弓が香織と市川を紹介しようとしたが、市川は店内に貼ってあった、とあるポスターにくぎ付けになっていた。

「すげぇ……!」
「どうしたの?」

香織が声をかけるも、市川は食い入るようにポスターを見ている。

「WWMの初期のやつだ。めっちゃ貴重じゃん……!」

中野が「へぇ」と感心する。

「ワンダーワールドメーカーを知っているのかい?」

その問いに、市川は顔を紅潮させて、興奮気味になった。

「知ってるなんてもんじゃないです。WWMがいなかったら、俺、音楽やっていないです」
「そうなんだ。若いのに珍しいね」
「父の影響で。ビートルズとWWMとで俺の血はできてます」
「そりゃ、すごいね。まぁ俺も似たようなものか」
「このポスターはほんと初期、デビューの頃のやつですよね」
「そうそう。まさに知る人ぞ知る、だよね」

笑いあう中野と市川。どうやら意気投合したようだ。

店内を見まわしていた香織だったが、気になってしょうがなかったのか、真弓にねだるように言った。

「ねぇ、この前真弓が話してた幽霊って、どこにいるの?」

香織のその言葉を耳にした中野の表情が、一気に硬くなったことに、この時、真弓はまったく気づいていなかった。

第八話 軽率 に続く