第十話 準特急

京王線の準特急は、笹塚駅に止まる。そんなどうでもいいことが、やけに気にかかる日だった。
とにかく急いでいた。仕事が長引いて、彼と待ち合わせしている新宿へ着くのが約束の18時を過ぎてしまいそうだった。
調布駅からようやく乗れた電車が、準特急だった。これ以上早く新宿に着く電車はない。しかし、明大前駅の次が笹塚駅に停車なのである。代田橋駅しか飛ばしていないじゃないか。
乗り換え案内をスマホで確認し、やはり間に合わないことが判明したので、私はラインを彼に送った。
すぐに既読がついて、返信が来た。
「気にしないで。気をつけて来てね」。
(ん?)
珍しいこともあるものだ。まるでデートに遅れそうな恋人を気遣うような文面ではないか。
いや、これはもしかしなくても、デートに遅れそうな恋人を気遣っているのか?
(まさかね)
「次は千歳烏山、千歳烏山です」
私はその車内アナウンスに内心で「チッ」と舌打ちした。そうだ。準特急は千歳烏山駅にも止まるのだ。乗り換え案内をよく見ればよかった。
とりあえず、新宿到着が18:07なので、ここであたふたしても仕方ない。コンパクトミラーで、化粧があまり落ちていないことを確認すると、私はそっと深呼吸した。
およそ一週間ぶりの、勝負。過日の中野での出来事は、お互い敢えて振り返るようなことはしていない。ただ、一つ言えるのは私が勝ち続ける、あるいは負けない限りにおいて彼が「決意」をすることはないということだ。
だから私は、決して負けられない。

草原が目の前に広がっている。どこまでも続いていそうに広大だ。遠くに、彼がいた。こちらに背中を見せて、立っている。
「おーい!」
私は思い切り声を出して、彼を呼んだ。
「おーい!」
こんな風に声を出すのって、学生時代以来かもしれない。
「何してるのーっ」
すると、彼がゆっくり振り向いた。私は言葉を失った。
遠くからでも、はっきりと見えた。彼は、泣いているのだ。
両の目から、涙が伝っている。それが陽光に反射して、彼の顔をきらきらと浮かび上がらせた。彼は、私に聞こえるギリギリの声量で呟いた。
「ごめん……」
その手には、鈍い光を放つナイフ。それが一切の躊躇いのない滑らかさで彼の胸を走る。
私は両足をもつれさせながら、必死に駆け寄った。しかし、全然近づくことができない。
再び捉えた彼は、一転して潔いほどに爽快な表情を浮かべていた。
私は喉の奥が焼けつくような感覚に襲われる。
「ダメ……」
ようやく、声を絞り出した。
「やめてっ!」

無機質な発車サイン音で目が覚めた。ヤバい、眠ってしまったのだ。私は慌てて電車を駆け降りた。だが、なんということだろう。電車はまだ笹塚駅だったのだ。もう一度飛び乗ろうとした時にはすでに、無情のドアクローズ。自分の体制を立て直すことに精一杯で、呼吸を整えるのに懸命で、とても間に合わなかった。
「あ……」
デートの日だけ履く、不慣れな高めのヒールを、この時ばかりは恨んだ。
仕方ないので彼にまたラインを送った。間違えて笹塚駅で降りてしまったので、次の各駅停車で向かうと。すると彼から、こんな返信がすぐに来た。
「いっそ、笹塚駅に変更する? 今から行くよ」。
(んん?)
まるで、ポカミスった恋人を慰めるようではないか。……いや、事実、ポカミスったんだけれど。

えっと、でも、そもそも、私たちって、恋人なんだっけ?

そんなそもそも論が頭をよぎったが、しかし純粋に嬉しかった。あの彼が、誰かを気にかけるようなことをいうだなんて。

新宿から笹塚は各駅停車でもすぐだ。私は駅前のコーヒーショップで一息つくこととした。アイスコーヒーを飲むと、どっと疲れが出る。なんで、あんな夢を見たんだろう。いと、ばかばかし。

……この時、まだ私は、これから二人に降りかかる災難の気配に全く気づいていなかったのだった。

第十一話 糸(予感)