私は唖然として彼を見た。彼は大切そうに小さな花束を抱えている。
(これは、夢か?)
私は自分の頬を軽く叩いた。どうやら夢ではなさそうだ。
「それ、なに?」
「花束」
そういうことを訊いているのではない。だが彼は飄々とした顔で、
「選んで」
と言う。
「何を?」
私はいぶかしげな顔をするが、彼は構わずに続ける。
「受け取るか、受け取らないか、つまり——」
「そりゃあ、受け取りたいけど」
「じゃあ、選ぶことだよ」
「えっ?」
彼は私の隣に腰掛けた。そして突然こんなことを言い出した。
「僕を受け入れるか、拒絶するか」
「えっ?」
今さら、何を言い出すかと思えば。
「僕は、悲しかった。とってもね」
悲しかった。どういうことだろう。
「誰かがどこかで死んだ。その時、どうして悲しまずにいられるんだろうって」
何を、言っているのだろう。
「それを『とにかく』に『せっかく』で済ませてしまえる君が、とても悲しかった」
「人身事故なんて、起きてないよ」
私がそう言っても、彼は首を横に振る。
「今この瞬間も、どこかで誰かが死んでいく。そのことが、どうしようもなく悲しい」
そんな。そんなことを言ったら、キリがないじゃないか。
「——と同時に、とても嬉しい」
淀みない口調で、彼は言う。
「いつ順番が来てもいい気がするからね」
私は花束と彼の表情を盗み見た。若干目を細めているような印象を受けた。
「僕がいつ死んでも、それは間違いなんかじゃないからさ」
「……」
私はすっかり風邪をひいてしまったのか、またくしゃみをした。
「大丈夫?」
死にたがりに心配されても、皮肉にしか感じられない。
「君が風邪を引くのは心配だ。今日は早めに帰ろう」
「誰のせいだと思う?」
私が、びしょ濡れなのは。無様に風邪をひいたのは。早起きしていつもより気合いを入れた化粧も無残なすっぴんになってしまったのは。
「雨が降ったから、じゃないの」
——彼のその回答に、私の中で、何かがちぎれた。
「意味がわからないの。私、やっぱり君がわからない。必死になっていたけれど、何に必死だったのか、わからなくなっちゃった。君は死ぬだの死なないだの言うけれど、私にとってはただの、いや楽しみなデートで、だから逢えるのは嬉しくて、でもどこかで怖くて、もしかしたら私のせいで君は『決意』してしまうんじゃないかって」
一気にまくし立てた。まくし立ててから、すぐに後悔した。彼はまるで実験対象を観察するような目で私を見ている。
「へぇ……」
「なにさ」
「そんな風に、思ってたんだ」
「当たり前でしょ」
居心地悪くなって、私は彼から目を逸らした。もう、言ってしまったものは仕方がない。後悔先に立たず、覆水盆に返らず、だ。
「……」
「……」
しかし突然、彼は花束を半ば押しつけるように私に渡してきた。
「これは、君が受け取るべきだ」
「どうして……」
「君はそうやって、僕を脅迫するんだね」
「はい?」
「いいだろう。そもそもこれは勝負だからね。君がそのつもりなら、僕も全力で立ち向かうよ」
「えっと……」
やはり、文脈がわからない。しかし、彼の中では道理があるらしく、どうやらその中では私が彼に「生きろ」と「脅迫」しているらしかった。そこまでは、なんとか理解できた。
「いつか必ず訪れる『その時』には、君がそばにいるべきなんだ。僕は、心にそう決めている」
(え。それって……)
私の頭の中が真っ白になる。
まったくロマンチックではないし、こちらは濡れねずみだし、場所はドトールだし。
「ついか僕が逝くときまで、とことん付き合ってもらうからね」
こんなプロポーズ、アリなんでしょうか。