第十五話 お掃除

「風邪ですね。気温のアップダウンが激しいので、気をつけてください。漢方だけ出しておきます」
医師にそう言われて、クリニックでは、葛根湯だけ処方された。平日に仕事を休むほんのりとした罪悪感もあってか、私の胸中は終始ざわついていた。それだけではないのは自明の理、だけれど。

彼が家に来る。

私は家に戻ると、だるい体を引きずって部屋の掃除を始めた。自分の単細胞っぷりにあきれてしまう。それでも、張れる見栄があるのはきっと、幸いなことなのだ。

1DKの単身向けアパート。それでも油断すれば本棚やカラーボックスに積もっているホコリたち。ごめんね、と一言加えてそれらをきれいに拭き取る。普段なら気にも留めない汚れが、今日ばかりは気になって仕方がなかった。

花瓶に挿したバラたちに触れると、不思議と気持ちが和らいだ。セバスチャンなんちゃらの持つ力だろうか。サーモンピンクの花びらが、雄弁に愛を語っているようで、あるいは騙っているようで、気持ちがふわふわした。

鏡を拭こうとしてその前に立った時、ふとそこに映った自分の顔を見て思った。
私は別に、かわいくもないし、細くもないし、特別な才能があるわけでもない。そんな私を、彼は、なぜ、選んだのだろう?

そういえば、私は彼からの推定プロポーズに対して、明確な返答をしていない。そもそも、彼から明確に「結婚がうんぬん」と言われたわけでもない。あくまで文脈で私がそう感じているだけなのである。

(もしかしたら、私は、とんでもない勘違いをしているのでは……?)

そんな不安すらよぎった。その不安は、今夜彼に逢う以外に解消の手立てがない。だから私は、時間をつぶすためにひたすら掃除をした。具合が悪いというのに、そのことを置き去りにして、今日彼に使ってもらう予定のマグカップを磨いた。我ながら、健気という名の馬鹿だと思う。

午後5時を過ぎて、ようやく玄関マットの洗濯まで終わらせた。打って変わって晴れた今日だから、よく乾いてくれた。日がのびて、まだ外は明るい。ベランダを見れば、部活帰りと思しき近所の高校生たちが楽しそうに行き過ぎていく。ふと、彼の言葉が頭にリフレインした。

「17歳の誕生日に、生まれて初めて自覚的に、能動的に、人を傷つけたんだ」。

何が、あったのだろう。
……知りたい。いやたぶん、私は知らなければならない。そんな確信があった。

17時半を過ぎてから、ようやく彼からラインが届いた。

「18時過ぎには行けると思う」。

がぜん、私の胸は高鳴る。決して……ときめきなんかじゃないけれど。死にたがりの彼と、そんな彼に「生きろ」と脅迫する私の、これは「勝負」なのだ。

あと30分で彼が来る。
掃除し残した場所はないだろうかとソワソワする。そんな自分に、盛大にツッコミを入れたくなる。
(おいおい、体調悪くて仕事を休んだんじゃないのかよ)と。
思い出したら、急に具合の悪さがぶり返してきた。わずかな悪寒とくしゃみがはじまる。まずい。いや、まずくはないんだろうけど、勝負にあたっては不利なことこの上ない。困ったな……。少し、横になるか。

私はせっかく綺麗にセッティングしたベッドの上に、思い切りダイブした。ああ、やっぱり疲れてたんじゃん。そりゃぶり返しもするわ……。

「僕が君を選んだ理由? そんなもの、なんで知りたいの」
「だって、知る権利が私にはあるから」
「知らない権利もあると思うよ」
「そんな権利、欲しくない」
「そう。じゃあ、教えてあげる」
「うん」
「君が僕にとって、無害だからだよ」
「えっ?」

ドアチャイムの音で目が覚めた。
(なんだ……また夢か)
私はぎこちなく体を起こすと、ドアに駆け寄り、魚眼レンズを覗き込んだ。
彼だ。彼の顔が歪んで見える。
「今、開けます!」
緊張からだろうか、手が少しだけもつれた。なかなかチェーンが外れない。
「……っ、もうっ」
やっとドアを開けると、そこにはたこ焼き店の袋を携えた彼がいて、
「こんばんは」
そう言って、柔和な笑みを浮かべた。

二人の勝負のステージは、初の自宅にて。私の中で高らかに、ゴングが鳴った。

第十六話 ミルフィーユ