第十三話 存在確率

「彰、大丈夫か」

中野は彰を落ち着かせようと静かに声をかける。涼介は驚いて、「何か、あったのか?」と言うが、しかしなおも彰は取り乱して、いつもよりも低い声で、「春の日に、薄桃色の女が一人、此岸で照れた顔して鼠を屠る……」まるで呪詛のように意味の分からないことを呻き続ける。詩のかけらなのだろうか。

「……秋の日に、灰色の女が一人、痩せた肺から意味を吐き出す」
「彰……」

中野はハッとしてカレンダーを見た。今日は、新月の仏滅だ。

「そっか」

どのような因果関係かはわからないが、彰はたまにひどく情緒不安定になる。それは、きまって新月と仏滅が重なる日だった。涼介もまた納得した表情で、「存在確率の低下か」と言った。

彰は、ゆらりと歩き回りながら、詩のような文字列を紡ぎ始める。

「世界からの隔絶、現実との接触の欠乏、希望の喪失、堕落の先にあるもの、安定と紙一重、虚無状態の中で生まれてくる精神現象、脾虚、気虚、現実感の欠如、不充足、もしくは稀薄な状態」

久々だ、こんな状態の彰を見るのは。なおも彼は続ける。

「フェルナンド・ベソア曰く『つまるところ、そのことなのだ。たんにそのことなのだ。存在するあらゆるもの、空や大地や宇宙、すべてのうちには、私しかいない、ということなのだ。』」

そうして、電池の切れた人形の如く直立したまま黙ってしまう。

「彰?」
「……俺は認めないぞ」

中野はそこにわずかに彰との意思疎通の可能性があると察し、「何を、認めないんだ」と問う。すると彰は、ギロリと中野を睨んだ。

「呼吸、種まき、排泄、倫理。あと何が必要だったんだろう?」
「……さぁ」
「俺には何が足りなかった? 何をどうすれば、許してもらえる?」

『許しを請う』という行為を、死んでなお迫られる彰に、中野は同情を禁じえなかった。中野はわかっている。彰が、何から、誰から許されたいのかを。涼介もまた、今日が新月の仏滅だと気づくと、

「こういう時って、好きなだけ苦しませてやるのが一番かもね」

そう言って中野の肩をポン、と叩いた。

「彰は怖いんだろうよ。自分の存在が不安定な確率で『消えるかもしれない』なんて、普通は、というか、生きていたら、まず考えないことだから。恐怖のあまり多少頭のネジが吹っ飛んだって無理もないさ。それこそ、正常な反応だろう」

涼介の言葉に、中野は頷いた。

「わかってるさ。わかってるけど……」

涼介は腕時計をチラッと見て、「ハルコ、遅いね。ちょっと電話してくる」とカフェスペースを一旦去った。

中野は長いため息をついた。

「存在の欲求、か」

かの有名なマズローの欲求階層説によれば、最下層に位置するのが生理的欲求、つまり生きるのに最低限必要な要素である。彰の言う『呼吸』はそれに含まれるだろう。だが、彰は呼吸すらしていない。つまり、存在することへの欲求がそもそも満たされていないのである。さすがのマズローも、死者のことまでは言及しなかったということか。

涼介の言う通り、彰は『怖い』のだろう。自分が消えてしまうかもしれないことが。言い換えれば、想いを遺して、bookmarkerのメンバーを置いて逝ってしまうことが。

「彰、君は本当に優しいんだね」

中野が言ったその『優しい』というフレーズに、彰は先ほどまでの無反応ぶりが嘘のように、

「安い慰めを言うな」

食ってかかるように吐き捨てた。

「俺はただの詩人崩れだ。誰一人守れやしない、冬のカモメよりも無力な阿呆だ」
「そんなことない、bookmarkerの歌詞は彰、お前がいないと成り立たないんだから」

彰はしかし、首を横にぶんぶんと振った。

「いつまでも秋子のいない世界に固執する自分が、本当に嫌だ……」
「彰……」

そして、自ら発したその名前に、彰は三たび心をひどく乱されるのである。

「秋子……!」

彰はうずくまって、頭を抱えてしまった。これは、このまま放っておくのが得策かもしれないと判断した中野は、床に落ちたヘッドフォンを拾い上げた。

「BAZOKA03、Bluetoothヘッドフォンか。5,000円ってところかな」

きっとハルコがAmazonあたりで買い与えたのだろう。

しばらく、柱時計の秒針の歩く音だけが響いていた。初夏の一陣の夜風が吹いて、新緑をふさふさ揺らす音が聞こえてきた頃になって、ふと、彰が口を開いた。

「やけに静かな夜だな」
「あぁ。月がいないからかな」
「……俺と秋子は、一つの未来になれなかった」

中野にとっては、定番のフレーズだった。この『昔話』をする時、決まってそれは彰と秋子という女性の、まさに悲恋と呼ぶにふさわしい『過去』が彰の中で蘇る時だった。

「どうして違えたんだろう。俺は、春にふれた腕時計のようにおかしかったんだろうか」
「………」
「伝えれば良かった。たった一言を、伝えられなかった。俺は、俺は……」

彰が言いかけた時、階段の方からガタガタっと物音がした。彰はそれを気にする様子はないが、中野は予感がして振り返った。

「いや、俺は止めたんだけどね」

そう言い訳めいて言うのは涼介である。涼介の背中越しから、真弓がひょっこり顔を出していた。

第十四話 影 に続く