中野は驚いて、また内心焦ってもいた。彰のこんな姿を見られたら、きっと真弓は失望する。そして『アリスの栞』を辞めてしまう。そんなことを考えたからだ。
だから、至って平静を装って、中野は真弓に言った。
「真弓ちゃん。今日はどうして、ここに?」
真弓の表情は少し緊張しているように見えた。勤務日でもないのに、なぜ現れたのかと。
当然、そう問われると思っていた。だから、真弓は、
「ハルコさんのギターが、聴きたくて」
と答えた。
「え?」
「眠れなくて。どうしようかなって思って。そしたら、前にハルコさんのギターで速攻寝ちゃったのを思い出して、借りてるbookmarkerの CDをかけたんですけど、やっぱり眠れなくて」
そこまで言うと、真弓はニコッと微笑んだ。
「直接伝える方が、効果があるんだと思って」
中野は戸惑って問いかける。
「真弓ちゃん、それはどういう……」
「彰さん」
真弓は立ち尽くしている彰に向かってまっすぐ声をかけた。そして、
「秋子さんって、誰ですか」
ど直球な質問を彰にぶつけた。ストレート勝負に出ることは、今までの真弓には考えられないことだったが、恋というのはまるで魔法のように、時に人を強くする。
中野は今度こそ狼狽した。彰への影響を考えたら、とても看過できなく、あまりにエグい質問だったからだ。
彰の姿が、突然に薄れ出す。精神状態は霊体にダイレクトに響くらしかった。彰はもがくようにして、
「俺は……」
まるで電子映像が乱れるように、その姿が歪んでいる。
「また、なのか……」
声まで、エフェクトをかけたがごとく重なって聞こえる。
「もう、失いたく、ない……!」
まるで悲鳴だ。中野はいたたまれなくなった。
「ごめん、真弓ちゃん。ごめん」
それに対して涼介は、中野をかばうように言った。
「なんでマスターが謝るのさ。誰も何も、悪くない。新月のせいだ。そうだろう、彰」
そう言うが、彰の存在確率は不安定になる一方だ。
真弓はしかし、ひるまなかった。
何が起きているのかはわからなかった。しかし、今が逃げるべき時ではないことは直感的にわかった。だから、毅然と問い続けた。
「秋子さんって、彰さんの大切な人ですか」
しかし、いくらなんでもそれは、今の彰にとって残酷な質問だ。中野は目を伏せ、涼介はため息をついた。
当の彰といえば真弓の言葉に、両目をむいて、
「愚問だ……!」
そう返すのが精一杯だった。その姿がやがて、いびつな影を生み出し始める。ふと、外の風が凪いだ。
「ヤバイな」
涼介は舌打ちした。
「久々かよ……」
「涼介、真弓ちゃんを責めないでくれ」
「わかってるさ。にしても、厄介だな」
「カレンダーを気にしなかった俺も油断してた。すまん、頼む」
涼介が頷く。真弓は、不可解な顔で中野と涼介を見る。
「………?」
しかし、二人は何も答えない。この二人のやり取りの意味を、真弓はすぐに目の当たりにすることとなる。
彰は辛うじて存在しているようだった。幽霊にはないはずの「影」が彰の足下に生まれている。それがグツグツと蠢いているのだ。
「え……」
真弓の背すじに冷たいものが走る。涼介は、
「ちょっと、ごめんね」
真弓を押しのけるようにして、彰と対峙した。
「彰。落ち着くんだ」
彰は鬼のよう、いやまるで悪魔そのもののような表情である。
「やっぱり……ここには秋子はいないのに、いないのに……、俺はいつまでこんな場所に……!」
テレビの砂嵐のような音を立てて、彰の姿が揺らぐ。彰を取り巻く影の色が濃くなってゆく。涼介は厳しい表情で、
「このままじゃ、悪霊になっちまう。そうなったら、俺たちは彰を喪うことになってしまう」
「どういう、ことですか」
真弓は震える声で問うた。すると、中野は
「真弓ちゃん、君にだけは、きっと彰も見られたくなかったと思う」
「えっ……」
中野は懐から、一枚の写真を取り出した。
そこにはセピア色に微笑む、真弓と瓜二つの和服を着た女性が写っていた。
第十五話 面影 に続く