第十五話 面影

「これは……」

真弓の問いに、中野は意を決して答えた。

「僕の祖母だよ。『秋子』さんだ」

そう答えた。真弓は驚きを隠せなかった。

「私に、そっくり……」
「だからたよ」
「え?」

中野は、もがく彰の方を直視する。

「君を雇った理由」
「……?」

彰はいよいよ、その存在確率を低下させて、影に飲まれようとしている。涼介は、懸命に名前を呼び続けていた。

「彰、今、助けるからな。彰」
「あ、あ、あ、あ、」

彰は苦悶の表情を浮かべている。涼介はタンバリンをカバンから取り出すと、シャンシャンとリズムよく鳴らし始めた。まるで何かの儀式だ。苦しむ彰を、涼介が楽器を演奏しながら見守っている。中野は、

「俺も手伝う」

そう言って、カフェスペースに飾ってあるウッドベースを取り出すと、演奏を始めた。

真弓は戸惑うばかりだ。しかし、一定の効果はあるようで、消えかかっていた彰の姿が、少し安定して見える。足下の影も薄れているように感じられた。

しかし、彰の表情は相変わらず厳しく、

「秋子……お前が……!」

唐突に真弓に向かって手を伸ばした。真弓は思わず、

「わ、私は、違います」

そう言って後ずさりした。ところが、そのあまりにも似ている「面影」が、今の状態の彰に混乱を招くのは必至だった。

中野と涼介が必死に演奏を続ける。このメロディーは、真弓の耳にもよく馴染んでいた。

「『アリスの栞』……!」

真弓はハルコから教えてもらった曲名を口走っていた。どこか物悲しいメロディーライン。

Even if the wind blows, the tears will not disappear.
Life is limited, so it makes sense.
Thank you for loving me.
Thank you for loving the world.
If I exhale from the thin lungs, you will smile.

英語の苦手な真弓にも、これらのフレーズは記憶できた。「風が吹いても涙は消えない。命には限りがあるから、意味がある。愛してくれてありがとう。世界を愛してくれてありがとう。痩せた肺から息を吐けば、きっとあなたは笑うでしょう」。

「Even if the wind blows, the tears will not disappear……」

中野と涼介の演奏に合わせて、気づいたら真弓は口ずさんでいた。

「……!」

その歌声に、誰よりも反応したのは、他でもない彰である。

「あ、あ……」

彰は髪の毛を掻き乱しながら、しかし耳を傾け始めたのだ。中野と涼介は目を合わせて頷いた。ここで彰の苦しみにとどめを刺したのは、そこに重なってきたギターの音色だった。

「ハルコ!」

涼介が階段の方へ声をかけた。ハルコはニコッと笑った。

「遅くなってゴメンね。あたしがいないと始まらないでしょ?」
「ハルコさん!」
「真弓ちゃん、なかなかいい歌声じゃん。さ、いくよ!」

ハルコがAm7コードを押さえて、再び『アリスの栞』の前奏から始まる。真弓は深呼吸した。

Even if the wind blows, the tears will not disappear.
Life is limited, so it makes sense.
Thank you for loving me.
Thank you for loving the world.
If I exhale from the thin lungs, you will smile.

Sorrow is fruit. You can not get it even if you harvest it.
Pleasure is the wind. Because it is important to feel.
I am waiting, when you smile again.

「book marker」のメンバー全員と真弓が、『アリスの栞』を演奏する。物悲しくも優しい旋律が、彰の心をひどく揺さぶった。

「う……、あ……」

徐々に自意識を回復していく彰。影が揺らぎ、消えてゆく。真弓は渾身の歌声で、

「I am waiting while singing!」

拙い発音ながら、そう歌った。

「秋子……!」

彰の目から、涙がこぼれる。演奏はクライマックスにさしかかり、彰の姿が明らかにハッキリとしてきた。真弓は『アリスの栞』の日本語パートを歌い出す。

「私は待っているわ。あなたからもらったあの分厚い本に、思い出という栞を挟んで」

外では静かに夜風が吹き始めた。新緑を柔らかく揺らしている。

「たまには歩を止めなさい。あなたが歩き続きたいのならば」

アコースティックバンドの奇跡のようなセッションは、彰の苦しみの終わりとともに静かに終わった。

第十六話 うにーっ に続く