第十六話 うにーっ

コーヒーの香りがその場にいる皆の鼻腔をつく。中野はいつも通り静かな佇まいで、一杯一杯丁寧にコーヒーを淹れている。

「美味しいねぇ」

ハルコがホッコリして呟く。その隣で涼介が、

「やっぱマスターのコーヒーは一級品だわ」

とホッと息をつく。中野は照れたような笑みを浮かべて、

「そう? 嬉しいなぁ」

のんきにそんなことを言う。

「あの……」

真弓は戸惑いがちに、三人へ声をかけた。

「彰さん、このまま放置ですか」

『このまま』とは、カフェスペースの片隅で横たわっている状態を指す。中野はしかし落ち着いた口調だ。

「あれだけ消耗したんだ、休ませてあげようよ」
「幽霊にも疲労があるんだねー」

しみじみとした口調でハルコは言う。涼介などは、売れ残りのシフォンケーキをつつきながらニコニコしている。

「まぁ、アレだな。俺たちの演奏の腕が上がったってコトで」
「前向きだよね、涼介は」

ハルコのツッコミに、涼介はドヤ顔だ。

「これなら、WWMフリークスにも胸張って出られるね!」

和気あいあいな雰囲気に、完全に置いていかれている真弓。おかしい。先ほどまであんなに必死の形相で楽器を鳴らしていた人たちに見えない。

「あの……」

真弓は再び声をかけた。

「私は、もしかしたら夢でもみたんでしょうかぃたたたた」

言い終える前にうにーっと真弓の頬をつねるハルコ。

「痛い!」
「じゃ、夢じゃないんじゃない」
「ハルコさん〜」

仕返しとばかり、ハルコの頬をうにーっとする真弓。自分でつねっておいて、ハルコの変顔に真弓は思わずふきだした。

「ちょ、ハルコさんウケる」
「しつれーな! これでもウチの美容室じゃ看板娘なんだからね」

じゃれあう二人を横目に、

「平和だねぇ」

涼介は言った。それに続くように、

「うん。平和だ。『何にも起きていない』、ね」

中野もそう呟いた。

目を覚ますと、という表現が果たして彼に適切かは定かではないが、文字通り目を覚ますと、彼の視界に真っ先に飛び込んできたのは、

「あーっ! 起きた!」
「本当だ! おはようございます、いや、こんばんは、かな? 彰さーん!」

やたらとテンションの高い女子二人組の変顔(お互いつねりあっているため)だった。

彰はどうリアクションしていいのかわからず、「あ、ああ……」とだけ発した。

「彰さん、テンション低っ。もしかして低血圧ですか?」

真弓のボケに、ノリノリでハルコがツッコミを入れる。

「真弓サーン、幽霊に血圧なんて関係ありまへんがなー」
「うわー、エセ関西弁! つら!」
「つら!」

なんなんだ、この光景は。なんちゃって漫才コンビに、それを保護者のような目線で見守るおっさん二人。

そういえば、さっきまでマスターしかいなかったはずだ。

「あれ……?」

彰はふと我に返り、カレンダーを凝視した。

「まさか、俺、また……」
「その『まさか』だよ」

中野は決して責めることのない調子で、彰に伝えた。

「今回は本当に危なかった。真弓ちゃんのおかげたよ」

そう告げた。

「真弓の……?」

そう問いながら、どこかでわかっていた。自分が、暗闇に囚われそうになった時に響いたのは、確かに、そう、真弓の歌声だった。

「そっか……」

彰は神妙な面持ちで、

「真弓」

と名を呼んだ。途端に跳ね上がる、真弓の鼓動。ハルコとじゃれていたのは、他でもない照れ隠しだったからだ。

「ハイ、何ですか」

背中越しで返事する真弓。真っ赤になる頬は、見られたくない。

「……礼をを言う」
「へ?」
「君のおかげで踏みとどまれた。……ありがとう」

真弓は、その言葉に、ある決意を固めた。

「やだなぁ……、お礼なんていいです」
「いや、しかし……」

真弓は、拳をギュッと握った。

「その代わり、教えてください」

その場にいる誰もが驚くことを真弓は口にした。

「彰さんと、秋子さんのこと、教えてください」

第十七話 秋子と彰 に続く