第十九話 自爆

「真弓ちゃん、じゃあさっきのパートをもう一回いこっか」

真弓が中野のボイストレーニングを受け始めて三か月。季節はすっかり夏になっていた。半袖の真弓は元気よく『アリスの栞』を練習している。ハルコのギターに涼介のパーカッション、そして中野のウッドベース。新しいbookmarkerもだんだん形になってきた。

「はいっ。お願いします」
「1,2、1,2,3」

中野のリズムどりで歌は始まる。

「Even if the wind blows, the tears will not disappear……」

カフェの営業が終わった店内で、軽やかでどこか悲しい歌が聞こえる。それを彰は口を真一文字に結んで眺めていた。その目元には、少しだけ憂いの色が浮かんでいる。真弓の歌声に耳を傾けながら、彰は静かに揺れていた。


「お疲れ様でした!」

練習の終わったメンバーを、ボーカル自らが冷たいアールグレイでねぎらう。

「かなりいい感じじゃないか?」

グラスを傾けて涼介は満足げだ。ハルコもまた、

「この時期は弦が変に鳴きやすいんだけど、真弓ちゃんの声がいいから、ユーコト聞いてくれるみたい」

そう言われて真弓は、嬉しそうに頷いた。

「ハイ。私も楽しいです」
「楽しいのが、一番だよね~」

中野もベースを磨きながら、朗らかに笑った。

「本番も楽しみにしてよね。あと2か月だから、ゲネプロ考えたら一か月半あるかないかだから、あっという間だよ」
「うーん! 久々のライブかー! 血が燃えるぜ」
「涼介、血圧上げすぎるなよ」
「わかってるって」
「あれ。監督は?」

ハルコがいう『監督』とは言わずもがな彰のことだ。

「時期だから。出かけているんじゃない?」
「あ、そっか」

時期とは、つまり、夏、のことで、それは要するに、そういうことだ。

「出番、ですか?」

さらっと言う真弓に、かなりの驚きを見せるハルコ。

「ずいぶんと慣れたもんだねぇ、真弓ちゃん」
「ハイ。もうお茶出しなら任せてください」
「そうじゃなくて」
「へ?」
「彰のこと」

真弓はニッコリ笑った。

「ハイ。『季節もの』ですもんね、ある意味で」

つられてハルコもぷぷぷと笑う。

「ちょっと、様子を見に行こうか」

真弓とハルコはスキップのような足取りで『現場』へ向かった。


アリスの栞の店先から少し離れた川沿いには、しだれ柳が生えている。普段はそよそよと風に揺られているだけだが、今日はどこか不穏にそよいでいる。理由はただ一つ。

「うへー、怖すぎ」

ハルコが茶化すように言う。街灯に照らされて薄明るい柳の木の下に、ぼぉっと彰が立っているのだった。そこを通り過ぎる人も先ほどから数名いるのだが、しかし彰に気づく様子はまったくない。

「あれ……?」

そういえば、と真弓は心の中で呟いた。

「彰さんって、地縛霊じゃなかったでしたっけ」
「そうだよ。何をいまさら」
「じゃあ、なんであそに行けるんですか?」

すると、ハルコは意地悪い顔をした。

「そりゃあ、本人に聞いてみたら?」

そう言うので、真弓はいえいえ、と首を横に振った。

「なんか嫌な予感がするからイヤです」
「そう? じゃあ、あそこで彰が何をしているのかも、知らないんだ」
「へ、肝試しのバイトじゃないんですか?」

ハルコは軽く真弓の頭をはたいた。

「そんなわけあるか」
「え、じゃあ……」
「秋子さん絡みに決まってるでしょ」
「やっぱり」

真弓は純粋にジェラシーを燃やした。そんな自分にも慣れつつあることに真弓自身も驚きだったが、それ以上にビックリしたのは、彰がそこで静かに泣いていたことだ。

「え……」

真弓の挙動が止まる。ハルコは、

「邪魔しちゃ悪いよ」

そういって真弓を制しようとするが、真弓は真剣な表情で、

「彰さん」

声をかけた。それでも彰は目を閉じて涙を流し続けている。

「彰さん」


「彰さん、また遅刻ですか」
「すまない……我が家の時計はしょっちゅう遅れるものだから」
「時計のせいにしちゃいけません」
「それもそうだね」
「今日は、新しいカフェー歌謡を聴きに行きましょう」
「またそれ? 秋子は本当に新しもの好きだね」
「珈琲を飲みたいのは彰さんじゃなくて?」
「まぁ、そっか」


今はこのまま、泣かせてあげたい。真弓はこころからそう思った。彰の気のすむまで。ここに現れる地縛霊。つまり、彰の生前の想いはここにも縛られているということだろう。

「真弓ちゃん、どうしたの?」

気づくと、真弓の頬にも一筋の涙が伝っていた。

第二十話 花火 に続く