空腹で目が覚めた。朝食をロクに取っていなかったから無理もない。コーヒーのいい香りが真弓の鼻腔をつく。
「おはよう」
一階から様子を見に来た中野が声をかけた。
「あ、スミマセン、私、つい寝ちゃった」
慌てて立ち上がる真弓に、ハルコは親指をびしっと立てた。
「それだけ、あたしの演奏にα波が出てるって証拠だね」
「そんなわけないだろう」
すかさず言葉を挟んでくるのはもちろん彰だ。ハルコは手をひらひらさせて
「負け惜しみにしか聞こえませーん」
と言い返す。
「別に負けてない」
「勝ってもないでしょうよ」
「へりくつだな。受けてきた教育の質を疑う」
「やかましい! 音楽はハートなの、ソウルなの。理屈こねてるあんたには想像が及ばないだろうけど」
「ふうん。それは楽しそうだな。よかったよかった」
「馬鹿にしてんの?」
「察しろ」
「なんですって!」
この二人はいつもこのような感じなのだろうか。すっかり驚いている真弓のために、中野は二人を制した。
「はいはい、落ち着いて。真弓ちゃんが引いてるでしょ」
ハッとしたハルコが、キョトンとしている真弓のほうを向いた。
「ごめん。いつものことだから、気にしないで」
真弓はどう答えていいかわからず、「いいえ」と前置きしてから、こう口を滑らせた。
「仲、いいんですね」
「「どこが!?」」
反射的にリエゾンする二人。さらに異議を唱えたのは彰だ。
「平成生まれの軽薄な娘と、明治生まれの由緒ある文学青年の仲など、どこをどうひねっても良好になるわけないだろう」
「自分で『由緒ある』とか言うなよ。あと、別にあたしは軽くない」
そのやりとりを見て、真弓はころころと笑った。
「ほら、やっぱり。喧嘩するほど仲がいいっていいますもんね」
真弓が笑ったのをみて、中野はホッとした。
「良かった。彰のこと、どのタイミングで話そうかって思ってたから」
自分で淹れたコーヒーを一口飲んで、中野は真弓に問うた。
「率直に聞くけどさ、真弓ちゃん。怖くないの?」
「へ? 何がですか?」
「いや、だから幽霊とか、そういうの怖くないの?」
その問いに、真弓はふるふると首を横に振った。
「どちらかというと、幽霊であることよりも、目つきと言葉遣いが怖いです」
それを聞いて爆笑するハルコ。それをチラッと見てから彰は、
「別に、好きに言えばいい。『表現の自由』ってやつだ」
と不機嫌そうに言い捨てたので、真弓は慌てて頭を下げた。
「あの、スミマセン。他意はなかったんです」
そう言ってそっと顔を上げると、忽然と彰はいなくなっていた。
「あれ……?」
「あーぁ、拗ねたね、あいつ」
ニヤッと笑うハルコは、真弓の肩をポンと叩いた。
「そういうことだから、これからよろしくね。真弓ちゃん」
何が『そういうこと』なのかはイマイチわかりかねた真弓だったが、ハルコに歓迎されていることだけは理解できたので、
「はいっ、よろしくお願いします!」
元気に返事する。その様子を見て、中野は胸をなでおろした。
その日の4限目からようやく大学に顔を出した真弓は、香織に「出席票、書いといたよ。筆跡変えるの大変だったんだからね」と小言を食らってしまった。
「ごめんごめん。ありがと。5限終わったら香織はサークル見学だっけ?」
「うん。軽音楽かジャズ研にしようと思ってる」
香織は小さいころからピアノを習っていたらしく、高校時代も軽音楽部でキーボードを担当していたという。真弓はそれを純粋に羨んだ。
真弓の高校時代までといえば、帰宅部でしかもアルバイト禁止、たまに友達と地元のショッピングモールやゲームセンターやカラオケで遊ぶ程度の、なんとも平凡、いや無味乾燥な時間だった。青春らしい青春も謳歌していないし、その結果彼氏などもおらず、「なんとなく」のうちに過ぎてしまっている。
だから真弓には、大学に行ったらやりたいことがあった。それが、本屋兼カフェ「アリスの栞」でのアルバイトだった。
真弓がその存在を知ったのは、地元の古本屋にあった「今行きたい! 素敵すぎる古民家カフェ10選」というムック本がきっかけだった。自分の志望する大学と同じ街に、『明治時代に建築された貴重な古民家をおしゃれに改装した、本も読めちゃう癒しの空間』があると知り、彼女は「アリスの栞」のドアを叩いたのである。
(「フツー」ねんて、もう、こりごり)
そんな想いが真弓の中にはあった。
だから尚更、アリスの栞に出る幽霊のことは、まるで真弓の青春にバラの花を一輪添えるように心に映えた。古民家カフェに文学青年の幽霊とは、それだけ真弓にとって、秀逸な組み合わせだった。
しかも、結構なイケメンさん。申し分ない……ことは、ハルコとのやりとりを見れば全然ないのだけれど、性格に少々難があっても、もう大歓迎だ。
特段、口止めもされていなかったので、店の宣伝もかねてと思い、真弓は香織に『アリスの栞』に住みつく幽霊のことを話した。
てっきり笑われるかと思いきや、
「へー! すごいじゃない。私も遊びに行くよ」
意外にもノリのいい反応を香織は返してくれた。真弓は得意満面だ。
「じゃあさ、今度遊びに来てよ。サークルが休みの日でいいから」
「予定がわかったらラインするね」
「うん」
『非日常』が、大きな口を開けて自分を待っている。このことが、真弓にはもうどうしようもなく、嬉しいことだった。そう、彼女は、この時の自分の言動の軽率さが何を招くかなど、微塵も知る由はなかったのだった。
第七話 ポスター に続く