真弓は階段を駆け下りると、中野に向かってこう言った。
「bookmakerのCDとかって、ありますか」
中野は背を向けたまま、
「あるよ。少し高いところにあるから、脚立を使わなきゃだけど」
そう返答したので、真弓はバックヤードから脚立を持ってきて、カチャカチャと組み立てた。
「洋書の棚の4段目だよ。届く?」
「あ、ハイ。たぶん届きます」
真弓が手を伸ばしたギリギリのところに、そのCDはあった。おそらく自主制作なのだろう、手作り感満載のジャケットには、桜の花びらが描かれた一枚の和紙風の栞が写っていた。
「栞……」
栞は英語で『bookmaker』だ。中野が声をかけてくる。
「CD、あったかい?」
「あ、ハイ」
脚立の上に座ったまま、真弓はそのジャケットに見入っている。
栞には、文字が並んでいた。それをじっと読んでいるのだ。
Even if the wind blows, the tears will not disappear.
Life is limited, so it makes sense.
Thank you for loving me.
Thank you for loving the world.
If I exhale from the thin lungs, you will smile.
「えっと……」
受験英語しか経験のなかった真弓には、すぐに意味は訳せなかったが、直感的に何か物悲しいイメージをいだいた。英語を指でなぞる。
「これ……なんだろう……」
「歌詞だよ」
突然、すぐ背後から声をかけられて真弓は「わ!」と驚いた。一階の天井から、彰がぶら下がっていたのだ。逆さまになっているので、当然髪の毛も逆立っている。
「彰さん、そのポジション、すっごい幽霊っぽいです」
「まぁ、幽霊だからね」
「この英詩も、彰さんが?」
それを聞かれて、彰は首を横に振った。
「君は風邪を引いたことはあるかい」
「へ?」
急に風向きの変わった質問に、真弓は戸惑い、首をちょこっと傾げた。
「そりゃあ、ありますよ。インフルエンザにもほぼ毎年かかります」
「そう。現代医学ってのは、すごいんだな」
「それは、どういう……」
言いかけた真弓はハッとした。彰の表情が、何よりも瞳が、憂いを帯びていたからだ。いや、憂い以上の、深い悲しみだろうか。
真弓はそれに見とれてしまった。それに気づいているのかいないのか、彰は独り言のように続ける。
「時代というのは、引き潮と満ち潮のようなものだ。決して安定せず、寄せては返す繰り返しに見えて、二度と戻らない。それと同じなんだ。だから、一瞬一瞬が尊いんだ」
「……」
「真弓、君はもっと『今』を大切にすべきだ」
彰の言葉に、真弓はさらにドキリとした。
(今、私の名前、呼んだ?)
「あの、彰さん――」
動揺した真弓の視界がぐらっと歪む。
「わぁっ」
そのままバランスを崩した真弓は、脚立から落ちてしまった。
物音を聞いた中野が驚いて駆けつける。
「大丈夫!? 真弓ちゃん」
「あ、いててててて……」
のそっと体を起こす真弓。
「だ、大丈夫です。ちょっと、その……」
「痛いか」
そう問うたのは、彰だ。真弓は思わずムッとした。
「そりゃあ、尻もちが痛くないと言ったら嘘になります」
「痛みは生きている証拠だよ。大切にするといい」
真弓はお尻をおさえながら脚立を支えに起き上がった。
「彰さん、ひどい!」
それは彰にとって意外な言葉だったらしい。彼は片眉を上げて反論する。
「なにがどう『ひどい』んだ」
「助けてくれなかったでしょ」
「無茶苦茶言うなよ。俺がどうして脚立を支えられるというの」
「なんていうか、霊的な何かで! 助けてくれたってよかったじゃないですか!」
憤る真弓に、中野も戸惑っている。
「あの、真弓ちゃん……『霊的な何か』って、何?」
「あーもー、なんでもいいですっ」
真弓は脚立から落ちた痛みと恥ずかしさとで、投げやりになっているようだ。
「俺は心配しているんだよ、一応」
彰の言葉は、火に油だ。
「一応、ってなんですか一応って!」
すると彰はスルスルと天井から降りてきて、真弓の頬に触れる仕草をした。
「……大丈夫か」
すると真弓は落ち着かない様子でその手をのけようとする。
「どうしたの?」
中野が訝しがる。だが、真弓本人はそれ以上に困惑していた。
「な、なんでもないですっ」
この時、まだ真弓自身も自分の気持ちに全く気付いていなかったのだった。
第十話 義務 に続く