第十話 義務

学生の本分は勉強だというが、授業を受けても、レポートを書いていても、あの日以来、真弓はどこかうわの空で過ごしていた。この日も昼休みに学食でラーメンを食べていたのだが、すっかり麺がのびてしまっている。

「大丈夫? 風邪でも引いたんじゃない?」

香織が声をかけるが、真弓は「うーん」と返すだけだ。香織は心配そうに、

「疲れてるんじゃない、バイトもほどほどにしたら?」

と声をかけるが、やはり真弓は「うーん」と唸る。

「悩みなら、言語化がいいって心理学の斉藤先生が言ってたじゃん。私で良かったら話してよ」

それを聞いても、真弓の食指は動かない。

しばらく黙っていると、しびれを切らした香織が、こう切り出した。

「経済学部の佐々木くんって知ってる?」
「……知らない」
「まぁいいや。サークル見学の時にチラッと会ったんだけど、覚えてないよね?」
「うん」
「ジャズ研の一年。そこそこかっこいいよ」

香織の言わんとすることがいまいち解せず、真弓は首をひねった。

「その佐々木くんがどうかしたの」
「あのさ」

香織は人差し指をビシッと真弓に向けた。

「真弓も、恋した方がいい。噂だけど、佐々木くんは今、フリーらしいよ」
「へっ?」

ハイパー余計なお世話だ。しかし、香織に悪気はないのだろう。なにやらスマホをいじったかと思うと、ニッコリ笑った。

「はい、完了っと」
「なにが?」

すると香織は、驚くべきことを言い放った。

「真弓のラインの連絡先、佐々木くんに伝えておいたから」
「えええっ!?」
「ラーメン、のびるよ」

真弓は戸惑いながら、

「もうのびてるよ……」

そう答えるのが精一杯だった。

香織のハイパー余計なお世話は、見事に佐々木肇の誤解を招いたらしい。つまり、サークル見学でチラッと会っただけの女子が自分に好意を寄せている、と。

確か、皆本香織にくっついてきた子だった。少し地味な印象だったけれど。挨拶もそこそこにいなくなってしまったと記憶しているが、まぁ、人が人を好きになるきっかけなんて、なんでもいいのだ。うら若き女子に好かれて悪い気のする男子大学生は、あまりいない。

佐々木はさっそく真弓にラインした。

「こんにちは。皆本さんから話は聞いたよ」

そのメッセージを見た真弓は瞠目した。香織は、何をどう佐々木に話したというのだろう。ラインはなおも続く。

「全然、いいよ。お友達からってことで」

へ?

「今度の木曜日、夕方あいてる?」

はい?

「返信待ってるね」

はいー!?!?

この時ばかりはラインの「既読」機能を真弓は恨んだ。別に読みたくもないメッセージに返信の義務が発生するような気がしたからだ。真弓は、傷は浅いうちに手当てしたほうが良いと思い、

「木曜日はバイトです。ごめんなさい」

とだけ返した。真弓はますます自己嫌悪に陥った。顔もろくに覚えていない相手に、なんで謝るんだ。そんな自分を、いつになったら変えられるんだろうか、と。


「真弓ちゃん?」

アルバイトの日、「アリスの栞」の閉店後に中野が怪訝そうな顔で真弓に声をかけた。

「顔色、良くないよ」
「あ、スミマセン。大丈夫です」

中野は相変わらず飄々と、しかしどこか優しく声をかけた。

「大丈夫っていう人は大抵、大丈夫じゃないんだよ。今日は片づけはいいから、早く帰ったら?」
「いえ……」
「だって、まるで幽霊みたいな顔色だよ」
「悪かったな」

返答したのは、真弓ではなく彰だ。彰は憮然とした表情で、

「死んだこともないくせに、人を不健康の象徴みたいに言うな」

そう言うものだから、真弓は思わず噴き出した。

「なんで笑うんだよ」
「だって……」

真弓の笑顔を見て、中野は少し安心したようだった。しかし、明らかに真弓の様子がいつもの『元気いっぱい!』な姿からはかけ離れていたので、

「何か、あった?」

そう声かけをした。それには真弓は答えず、というか答えられず、彰の方をちらっと見てから、ぎこちなく話し出した。

「あの、今、勝手にセッティングされようとしてて」
「セッティング? 何の?」
「えっと……」

真弓は口ごもったが、拳をぎゅっと握って意を決したように言った。

「恋、とかそういうの、って、しなきゃ、いけないものなんでしょうか……」

それを聞いた彰の方眉が、明らかに跳ね上がった。

第十一話 パセリ に続く