学生の本分は勉強だというが、授業を受けても、レポートを書いていても、あの日以来、真弓はどこかうわの空で過ごしていた。この日も昼休みに学食でラーメンを食べていたのだが、すっかり麺がのびてしまっている。
「大丈夫? 風邪でも引いたんじゃない?」
香織が声をかけるが、真弓は「うーん」と返すだけだ。香織は心配そうに、
「疲れてるんじゃない、バイトもほどほどにしたら?」
と声をかけるが、やはり真弓は「うーん」と唸る。
「悩みなら、言語化がいいって心理学の斉藤先生が言ってたじゃん。私で良かったら話してよ」
それを聞いても、真弓の食指は動かない。
しばらく黙っていると、しびれを切らした香織が、こう切り出した。
「経済学部の佐々木くんって知ってる?」
「……知らない」
「まぁいいや。サークル見学の時にチラッと会ったんだけど、覚えてないよね?」
「うん」
「ジャズ研の一年。そこそこかっこいいよ」
香織の言わんとすることがいまいち解せず、真弓は首をひねった。
「その佐々木くんがどうかしたの」
「あのさ」
香織は人差し指をビシッと真弓に向けた。
「真弓も、恋した方がいい。噂だけど、佐々木くんは今、フリーらしいよ」
「へっ?」
ハイパー余計なお世話だ。しかし、香織に悪気はないのだろう。なにやらスマホをいじったかと思うと、ニッコリ笑った。
「はい、完了っと」
「なにが?」
すると香織は、驚くべきことを言い放った。
「真弓のLINEの連絡先、佐々木くんに伝えておいたから」
「えええっ!?」
「ラーメン、のびるよ」
真弓は戸惑いながら、
「もうのびてるよ……」
そう答えるのが精一杯だった。
香織のハイパー余計なお世話は、見事に佐々木の誤解を招いたらしい。つまり、サークル見学でチラッと会っただけの女子が自分に好意を寄せている、と。
確か、皆本香織にくっついてきた子だった。少し地味な印象だったけれど。挨拶もそこそこにいなくなってしまったと記憶しているが、まぁ、人が人を好きになるきっかけなんて、なんでもいいのだ。うら若き女子に好かれて悪い気のする男子大学生は、あまりいない。
佐々木はさっそく真弓にLINEを送った。
「こんにちは。皆本さんから話は聞いたよ」
そのメッセージを見た真弓は瞠目した。香織は、何をどう佐々木に話したというのだろう。ラインはなおも続く。
「全然、いいよ。お友達からってことで」
へ?
「今度の木曜日、夕方あいてる?」
はい?
「返信待ってるね」
はいー!?!?
この時ばかりはラインの「既読」機能を真弓は恨んだ。別に読みたくもないメッセージに返信の義務が発生するような気がしたからだ。真弓は、傷は浅いうちに手当てしたほうが良いと思い、
「木曜日はバイトです。ごめんなさい」
とだけ返した。真弓はますます自己嫌悪に陥った。顔もろくに覚えていない相手に、なんで謝るんだ。そんな自分を、いつになったら変えられるんだろうか、と。
「真弓ちゃん?」
アルバイトの日、「アリスの栞」の閉店後に中野が怪訝そうな顔で真弓に声をかけた。
「顔色、良くないよ」
「あ、スミマセン。大丈夫です」
中野は相変わらず飄々と、しかしどこか優しく声をかけた。
「大丈夫っていう人は大抵、大丈夫じゃないんだよ。今日は片づけはいいから、早く帰ったら?」
「いえ……」
「だって、まるで幽霊みたいな顔色だよ」
「悪かったな」
返答したのは、真弓ではなく彰だ。彰は憮然とした表情で、
「死んだこともないくせに、人を不健康の象徴みたいに言うな」
そう言うものだから、真弓は思わず噴き出した。
「なんで笑うんだよ」
「だって……」
真弓の笑顔を見て、中野は少し安心したようだった。しかし、明らかに真弓の様子がいつもの『元気いっぱい!』な姿からはかけ離れていたので、
「何か、あった?」
そう声かけをした。それには真弓は答えず、というか答えられず、彰の方をちらっと見てから、ぎこちなく話し出した。
「あの、今、勝手にセッティングされようとしてて」
「セッティング? 何の?」
「えっと……」
真弓は口ごもったが、拳をぎゅっと握って意を決したように言った。
「恋、とかそういうの、って、しなきゃ、いけないものなんでしょうか……」
それを聞いた彰の方眉が、明らかに跳ね上がった。
第十一話 パセリ に続く