なにもかもがわからなくなるときがある。わからないことがわからない、そんな瞬間に私はこれまで自分が傷つけてきた人々の脊柱を想う。中には同じような色のなにかが詰まっていて、同じような仕組みで動いて同じような感覚で痛みを覚えてることを考えたら、わからなくなることもまた同じなのだろうとひどく安堵する。同じであることがわからないことを放置してよい免罪符であるように、しっかりと前へならえで育ててもらいました。知っているよ、同じようにして生まれてきた私たちだから、わかりあえるなんて嘘なんだって。正義の味方が多すぎてどこにもいなくなってしまったことが悲しくて、気づいたらまたプリキュアは新しくなっていて、セーラームーンの目はでかくなっていて、餌に釣られた正義と月明かりの脊柱とかぶつかりあってテキストデータは刃に変容してあらゆる形で互いを傷つけはじめた。実態がないから法で縛れない、法で縛れないから好き放題に人は人を傷つける。野生に嫌味の余地はない。囲まれると優劣に走るのは鶏も同じだ。ああ同じだあはは。基準が必要なのかなとは思う。幻聴など聞かず、人の役に立ち、空気をよく読み、たくさん勉強をして、要領よく振舞い、異性を愛し、それでいて個性は大切です!の合唱に加わり。あれ、何を誰が推奨≒強制しているのかしら。わからない。わからないからわからなくていい。生きているだけで息が詰まるんだ、気に喰わないことを意に介して誰かを傷つける暇などない。私と同じ人間は何処にいますか。同じように脊柱に髄液を流しながら鼓動をやめない割に果てるときに焦がれて、人類みな兄弟なんて脅迫をせずニコニコ笑って泣いている、そんな人生を送りたいと願う弱虫は。あちらこちらに立つ脊柱、座る脊柱、横たわる脊柱。どれが誰で誰が敵で誰が擁護者で擁護と庇護の違いが私にはもうわからない。そもそも敵は必要か?一生懸命に生きなければなりませんか。食べて出して吐いて眠って、それ以上に必要なことたちが人を苦しませてはいませんか。望むから苦しくなる、だから私はもう生きたいとは思わない。ただしそれは死にたいと同義ではない。そうでなくても時々刻々と死には近いている私たち(わあおそろい!)だから私はただ求めている。優しさから遠く離れた音楽や分別など気にしない文学や正義なんて独善だと割り切って誰かに必殺技を仕掛けるヒロインやあちらこちらに沸き立つ脊柱たちのたくさん揺れる街角の、カセットテープの穴に人差し指を突っ込んでのびきったのを戻してあげるような/か/み/さ/ま/の御わざを。人には定型が、テンプレートが、基準が、法が、トレンドが、どうしても必要みたいです。なにが言いたいのかって?私にもわかりません。ただ、今さっきコンビニの前で口づけを交わしていた恋人たちが二本の脊柱にしかみえないので、ずいぶんと視力が落ちたなとは思います。