レイナちゃん

午後9時の消灯から9時間はベッドから起き上がることができない。睡眠の確保のために、就寝前にはしこたま睡眠薬を飲まされるから。錠剤だけで腹が膨れそうな量を、ぬるい水で流し込むのだ。

そのあと、「おやすみなさい」といっても夜勤の看護師は挨拶を返すことはなく、「口」とだけいって口を大きく開けるよう促す。きちんと全部の薬を飲んだか確認するためだ。僕がそれに応じると、面倒そうに口内を見た看護師は「はい」とだけいって次の患者の対応に移る。いつものことだ。

ぺたぺたとスリッパで擦り気味に廊下を歩く。薬さえ効いてしまえば、あとは横になって意識を手放すだけだ。余計なことを考えずに済む。プラスチック製のカップにデイルームに置かれた給茶器から水を注いで、ほんの少し唇を湿らせた。年中エアコンがきいているのはいいが、そのせいで乾燥がひどく唇がしょっちゅう割れてしまうのだ。

「おやすみなさい」

こちらにあいさつをしてきたのは、僕よりひとまわり年上と思しき隣の部屋の男性患者だった。

「おやすみなさい」

僕が返事をすると、その男性は嬉しそうに会釈して部屋に戻っていった。見かけない顔だ。入院して間もないのかもしれない。

***

その日の朝も僕は鈍い頭痛とともに目を覚ました。中途覚醒がなくてよかった。追加の睡眠薬の頓服を求めてナースステーションに行ったところで、夜勤で機嫌の悪い看護師から嫌味を言われるか聞こえよがしにため息をつかれるのが関の山だからだ。

食事は朝食が七時半。デイルームのテーブルの席は決められており、食事時だけ名札が置かれる。配膳する看護助手に名前を呼ばれ、一人ひとりがトレーを受け取り、「いただきます」もなく各自黙々と食べ始める。

ブロイラーみたいだ、と僕は内心で自嘲する。何にも迷わず、惑うことも悩むことなく、目の前の栄養バランスの優れた食事を残さずに食べることだけが、この時の患者たちのミッションとなる。

「やだあ、私、これ嫌い!」
「私はこれが嫌」

若い女性患者同士が嫌いなおかずを交換しあうのを見つけた看護師が、「勝手なことをしないで!」と二人を叱責した。一人は子どものように泣きだし、もう一人は怒りのあまりスープをトレーにひっくり返した。

近くにいた看護助手がモップをもってきて床にこぼされた液体を拭き取る。泣いている女性が、「私は、悪くないのよう」としゃくりあげると、スープをぶちまけたもう片方の女性はいよいよ気まずくなり、「あんたが椎茸食べられないっていったからいけないんでしょ!」と怒鳴った。それでなにがしかのスイッチが入ってしまったらしく、その女性は何語かわからない、そもそも言語なのかもわからない金切り声を上げはじめた。

その場の他の患者たちは見て見ぬふりに徹し、自分のトレーにのった皿を空にすることに集中した。そうせざるをえなかった。さもないと——

「はいはい。いい子はあっちに行きましょうねー」

明らかに腕っぷしのいい男性看護師が二名駆けつけて、喚きちらす女性患者の肩と腕をがっしりと掴む。まるで猛獣の捕獲だ。

「放して! 放してよ!」

「みんなの迷惑だからねー、あっちに行こうねー」

「あっち」とは、すなわち保護室という名の独房のことだ。彼女は今からそこで「お仕置き」を受ける。

「あーあ」

誰かがぽつんと呟いた。先ほどまで泣きじゃくっていたほうの女性患者は、椎茸だけを器用に残してあとは全てを食べ切っていた。

「食事は残さないでください」

看護助手にそう言われ、彼女がまた泣きそうになるのを見た看護師長が「もういいわ」と大きくため息をついた。

確か泣いたほうの女性は最近入院してきたはずだ。僕はちらりとそちらを見たが、一瞬彼女の目尻が下がっているように見えたので、すぐに視線を逸らし、ぬるくなった野菜のスープを飲み干した。

他人事としてやり過ごす。ここではそんなことが肝要なのだ。

***

ラジオ体操ののち作業療法の時間になると、曜日によって決められた患者が別部屋に集められる。めいめいに塗り絵や書道、折り紙などをしているのだが、僕は何をするでもなく、窓辺で初夏の日差しを受けて萌える院内の樹々の葉が風にそよぐのを眺めていた。

「これ、見てもらえませんか」

僕に話しかけてきたのは、昨夜就寝前に挨拶を交わした男性だった。男性はぬり絵をしていたのだが、それはいわゆる大人向けの難易度の高いもので、非常に細かい絵柄に緻密かつ丁寧に色が配置されている。

「結城さん、すごいじゃないですか」

返したのは僕ではない。近くにいた作業療法士だった。結城と呼ばれた男性は軽く会釈して、やはり僕にぬり絵の感想を求めた。

僕はその絵をじっと見つめた。それは自傷防止のために先端の丸くされた色鉛筆で仕上げたとは思えないほどタッチが力強く、また洗練されていた。

「どうしたらそんな風に塗れるんですか」

僕が興味を示すと、結城は嬉しそうに答えた。

「塗る前の線たちが、『優しく塗ってくれ』ってリクエストしてくれるんです。だから、それに応えてあげたんです」
「声がしたんです?」
「ええ」

そんなことは、ここではよく話される経験だ。しかし結城のように、嬉しそうに話す患者は珍しいと僕は思った。

「それ、納涼祭で飾りますね。預かります」

作業療法士が結城本人の許諾も得ずにぬり絵を回収し、鍵のかかったキャビネットにしまってしまう。だが結城は終始にこにこしながら、

「また、塗ればいいですから」

と、作業療法士を睨みつける僕をどこか説得するようにいった。

***

売店で欲しいものを買い物伝票に記入し、病棟スタッフに代わりに買いに行ってもらって、その物品を支給される。そこから手数料が引かれるだけではなく、「管理費」の名目で日額数十円をとられる。それを搾取と呼ばずしてなんといおうか。

僕は有名作家の新作小説をお願いしていた。僕のすぐ後ろで順番を待っていたのが結城で、クレヨンを受け取っていた。クレヨンは異食の対象になりやすいため、使用後には必ず看護師に預けるように言われていた。

僕はデイルームに戻り、さっそく読書をはじめた。その隣に座って、結城はチラシの裏にクレヨンで絵を描きはじめた。結城の手つきは慣れたものだった。その軌跡には雑念がない。あっという間に、幼い女の子が柔らかく微笑んでいる絵が描かれた。

「娘です。レイナっていいます」
「かわいいですね」
「髪がくせっ毛なんです。目元は俺に似たってよくいわれます」

絵を見つめる視線は、娘を想う父親のそれだった。

聞けば、結城はサラリーマンとの兼業イラストレーターとして働いていたという。ある日突然、絵がこちらに話しかけてくるようになったのでそれと会話していたところ、その姿を発見した家族に勧められて、少しの間、ここで休養することになったのだと、笑いながら教えてくれた。

***

病院内の納涼祭は職員の福利厚生も兼ねており、リハビリという位置づけで患者たちは出みせでやれ焼きそばだのフライドポテトだのの盛りつけに駆り出される。

ソフトクリームの渦を巻くのに件の泣き虫女性患者が苦戦していると、若い看護師たちがケラケラ笑って「早くしなさいよー」「そんなこと言ったらまた泣いちゃうんじゃなーい?」などとうそぶいていた。

僕と結城は、会場となった駐車場の一番奥に設けられた「みんなの作品展」ブースを担当させられた。そこで日頃の作業療法で作ったぬり絵や工作品を飾っていたのだが、その中に、あの日結城が見せてくれた絵がないことに気がついた。

「あの、見当たらない作品があるんですが」

僕が尋ねても、ブースの監視をしていた作業療法士は「そうですか」と返すだけだった。結城は、それでもにこにこと笑みを浮かべていた。

***

それから一ヶ月ほどして、結城に外泊の許可が下りた。

小ぶりのリュックサックを携え、結城は「ちょっと、行ってきます」と僕にだけ挨拶をした。

「もうすぐ、レイナの誕生日なんです」

それを聞いた僕は正直、嫉妬心を抑えられなかった。結城には、自分と違って帰る場所がある。そのことが、どうにも虚しくてたまらなかった。

僕は会釈する結城を無視した。それでもなお、結城は笑顔でこちらに手を振りながら病棟を去っていった。

——なぜ、あの時僕は、彼に声をかけられなかったのだろう。

この瞬間の己の弱さが、ずっと自分を苛むことになろうとは、このときの僕にはまったく想像できなかった。

ただ、ひたすらに虚しかった。悲しかった。……寂しかった。しかもそれらを口に出すことすらできなかった苦悩から、ひたすら目を背けていた。

しかし、そんなことは、しょせん卑劣な言い訳にすぎないのだ。

それから結城が病棟に戻ってくることはなかった。

外泊期間があまりに長いので、不自然に思って結城の携帯電話に病棟の公衆電話から何度も電話をかけた。個人情報のやりとりは自己責任として放置されていたため、僕たちは互いの携帯電話番号を交換していた。

僕の携帯電話は管理上の理由で没収されていたし、閉鎖病棟は外へ自由に出ることもできないので、ナースステーションの前の公衆電話からかける以外の方法がなかったのだ。

結城の携帯電話は留守電にもならなかった。だから何度もかけた。いつか出てくれると信じていたから。

しかし、それを病棟スタッフたちにひどく咎められた。時として口汚く罵られた。

喉の奥が焼けるような不快感を堪えながら、彼ら彼女らの罵声を背に受けても、毎日公衆電話から結城の番号をプッシュし続けた。しかし、ついに電話が繋がることはなかった。

***

ある時、隣の部屋で男性患者同士の喧嘩が起きた。看護師にいわれて仲裁するために僕はその部屋に入った。それで初めて気がついた。6人部屋のベッドに空きはなかったはずだったが、一番奥の空間に洗濯済みのリネンが畳まれて置きっぱなしになっていたのだ。結城は戻ってくるんだから、他の患者がリハビリと称してシーツ類を敷いておくはずだ。僕は失礼を顧みずに、間仕切りのカーテンの中へ顔を突っ込んだ。

結城が使っていたはずのベッドには、見知らぬ老年男性が直接マットレスの上でオムツをつけて昼寝をしていた。

どういうことかと尋ねても、ここぞとばかりに「個人情報だから」と医師や看護師には取り合ってもらえなかった。

結城はなし崩し的に退院したのかもしれない、と僕はどうにか自分を納得させようと思った。もしかしたらどこかの街で、レイナちゃんに得意のイラストを描いてあげているんだろう。

あの人は、一足先にここから出られたんたって。

***

その後、結城が作業療法の部屋に残していったあのぬり絵が、年末の「大掃除」のプログラム中に出てきた。作業療法士が即座に捨てようとしたので、それをどうにか止めて僕がそれを引き取った。

デイルームに戻ってそれを広げたところ、近くにいた看護師たちが「あっ」と声をあげた。

「やだ、あれってもしかして」
「ああ、あの人の? JRに飛びこんじゃった」

僕は視界が一気にぐにゃりと歪むのを止められなかった。喉の奥から激しい怒りが込み上げてきたことまでは、記憶にある。

それから先のことは、よく覚えていない。気がついたら保護室の中にいて、コンクリートでできた灰色の天井を見上げていた。

この灰色に、結城ならどんな色彩を添えてくれるだろう。そんなことを考える資格すら、僕にはもうないように感じられた。

右腕にじわりと痺れを覚えたので視線をやると、ガーゼがあてられていた。おそらく、きつめの薬を注射されたのだろう。頭の鈍痛はいよいよひどく、僕に整然とした思考を許さなかった。

ここは「心を癒す」場所などではないと身をもって理解していた。疲れ傷つき果てた人々が「正常」とされるものからの逸脱を余儀なくされた結果として、社会から隔離される場所に他ならないと。

散々傷ついてたどり着いた先で、またしてもその傷をえぐられる。そんな不条理が、この社会では「医療」としてまかり通っているのだ。

保護室から一般病室に移動が許可された日、僕はふらつく足をどうにか運んで自分のベッドへ戻った。頼んでもいないのに持ち物が整頓されていた。嫌な予感がして、床頭台の引き出しを開けるとそこには黒のボールペンで全面に「×」をつけられたレイナちゃんの似顔絵が転がっていた。

僕は薬のせいで怒りを抱く気力も奪われていたので、こみ上げる虚しさにどうにか耐えながらその絵を携えて、のろのろとナースステーションへ向かった。

ノートパソコンで日誌を書いていた看護師に向かい、僕はその無残になった一枚をみせた。

「これ、どういうことでしょうか」
「なにが?」

視線も合わせずに看護師がいう。異食や自傷を避けるために病棟内では患者たちにボールペンの所持は認められていない。だが、レイナちゃんの顔を汚したのが誰であれ、この絵を守れなかった僕が悪いことには変わりがない。

「……なんでも、ないです」

僕が踵を返して去ろうとすると、奥の椅子でふんぞり返っていた看護師長が、だるそうに顔を起こした。

「そういうの、もうやめたほうがいいわよ」
「……はい?」
「あの人には娘なんていなかったの。妄想よ妄想。そういうのに、いつまでも付き合ったって、なんか意味ある?」

ここは、心を癒すどころか、自分に尊厳というものがあることを忘れさせるための場所だ。このとき、僕はそれを痛みとして実感した。

僕がうつむいて立ち尽くしていると、看護師長は脅すような口調でこういった。

「なに、保護室がそんなに恋しいの?」

僕はそれから黙りこんだままデイルームにしつらえられたソファに身を沈めていた。するとその隣に、例の泣き虫女性患者がやってきて、唐突に僕にこういった。

「死にたいっていうと『それは生きたい、の裏返しだ』とかイミフなことカウンセラーとかに言われるじゃん。でも死にたいはそのまま死にたいって意味じゃん。でもそれを口にすると薬がガンガン増えていくでしょ? で、死ぬことについてさえ考えられなくなる」
「……そうかもしれませんね」
「その絵、もったいないね」

女性患者が無残になったレイナちゃんの似顔絵を指さした。

「びっくりしたよ、あなたがそんなことする人だなんて。でもまあ、気持ちはわかるけど」
「『そんなこと』?」
「ほら、保護室行きになった時のこと。デイルームにいたみんな見てたよ。あなた近くにいた看護師につかみかかってボールペン奪って、その絵にでっかくバツジルシつけちゃったじゃん。もったいないなって思った」

それだけいって、その女性患者は去っていった。強烈な罪悪感を覚え、何度か頭を横に振った。それだけでひどいめまいに襲われた。このままもう、なにもかも終わってしまえと心の底から思った。