地元のミニコミ誌の取材依頼が来たのは、紫陽花たちが雨に濡れて彩りを増す時期のことだった。
はなみずき通りと名付けられた通りに面したこの店だが、流行のカフェとは違って年号が昭和の頃からほとんどスタイルを変えていない、自分でいうのもなんだが地味な喫茶店である。
当初、僕はその申し出を断った。取材してもらってもきっと期待に添えないだろうから、と。
だが、そのミニコミ誌の編集者は引かなかった。一見すると大学生と間違えそうなほどに若く、快活にあいさつをする女性だった。茶髪をショートカットにしていて、デニムにカットソーというこざっぱりした格好をしていた。
「『とりっぷとりむ』という地域密着のミニコミ誌を出しています、松永真希と申します」
松永さんは「とりっぷとりむ」のバックナンバーを僕に見せてくれた。掲載されていたのは、クチコミサイトで高い点数を得ている店が軒並みであった。
「気軽に旅するように街のいいところをつまみ食い、がコンセプトなんです」
「そうですか」
「これまで取材させてもらったのは、カリーガンジスにブーランジェリーキットス、カフェレオン……もちろんまだまだありますが、有名どころだとそんな感じです」
僕はふと視線を柱時計に向けた。それから自分の腕時計を見た。腕時計は電波式だから、どうやら柱時計のほうが数分遅れているようだった。
「なぜ、うちに取材を?」
すると松永さんははじけるような笑顔を僕に向けた。
「ズバリ、昭和レトロです」
僕は思わず苦笑した。間違いなく平成生まれの松永さんだからこそ、ためらいなくそんな言葉が出てくるのだろう。
僕はカウンターに松永さんの注文したたまごサンドとブレンドコーヒーを置いた。
「わ、美味しそう! 写真撮ってもいいですか?」
僕がどうぞというより先に、松永さんは慣れた手つきでスマートフォンで撮影をはじめた。しきりにパセリの角度を気にしているのが、なんだかおかしかった。
「昭和レトロですか」
「はい。歴史のある街だからこそ、そういう魅力を発信したいんです」
たまごサンドをにこにこしながら食み、松永さんは熱弁をふるった。松永さんはこの街に生まれ育ち、大学生のときに東京のほうへ離れたものの、この街への愛着があって戻ってきたという。地元のクリニックに医療事務として就職したことや、仕事の合間を縫ってミニコミ誌の活動をしていること、さらには高校時代から付き合っている彼氏がいることまで話してくれた。
「なんでまた、ミニコミ誌の発行を?」
「つてがあったんです。クリニックのパンフレットを印刷する会社が近所にあって、それで」
「いえ、なぜそこまでされるんです?」
僕の素朴な疑問に、松永さんは少し間を置いてからこう答えた。
「好きなんです、この街が」
「それだけ?」
「じゅうぶん過ぎませんか」
そういって、松永さんはたまごサンドとブレンドコーヒーを平らげ、にこりと笑った。
「今日はごあいさつまで。正式に取材をお受けいただけることになったら、こちらまでご連絡くだされば」
松永さんは先に差し出した名刺のメールアドレスを指さした。それと時を同じくして、柱時計がぼーんと二回鳴って、数分遅れで午後二時を報せた。その直後、ぱたりと動かなくなった。
僕は思い立って、「せっかくだから」と松永さんを引き留めた。
「ちょっとした『昭和レトロ』、お見せしましょう」
「え?」
僕は脚立を取り出して、壁から柱時計を取った。文字盤の4と5、7と8の間に穴があいている。松永さんは興味深げに、僕が取り出した、その穴に挿し込むゼンマイを見ている。
「これはね、右側が時間用。左側が時打ち用の穴なんです。右側は時計と反対回りに、左側は時計回りに巻きます」
「へぇ……」
「やってみます?」
「えっ」
松永さんの目が輝いた。
「いいんですか?」
「『昭和レトロ』の参考になれば」
「ありがとうございます!」
トンボのような形をしたゼンマイを松永さんに渡すと、彼女は少し緊張している様子だった。
「初めて見ますか?」
「はい。手で巻くなんて、本当にレトロですね」
「でしょう」
力を入れないと回らない。かといって入れすぎても回らない。柱時計のゼンマイ巻きは、どこか人生におけるたいせつなことに似ている気がしてならない。
おっかなびっくり、右側の穴に差し込んだゼンマイを松永さんはひねり回した。
「そうそう。上手です。あとはジャストのところでボンボンを鳴らして、針を調整します」
「……時間なんて」
松永さんはどこか興奮した様子で続けた。
「スマホを見ればそれでいいって思ってました。わざわざこんなことをしてまで、なんていうか、時間を知るだけのことにこんなに手間ひまかけるなんて」
僕は松永さんの言葉を待った。
「素敵です、とっても」
僕もまた、笑顔で応じた。
「生活って、便利なことだけがいいわけじゃないですからね」
「そうですね。ますます『昭和レトロ』、特集組まなきゃ」
外を見ると、雲の切れ間から青空がのぞいていた。雨雲がちょうど去ったらしい。動き出した柱時計を壁に掛け戻すと、松永さんは小さな手で拍手をしてくれた。
「また来ます、必ず」
「ぜひ、お待ちしております」
「あ、そうだ」
松永さんは大切なことを思い出したような表情になった。
「さっきのたまごサンドの写真、インスタにあげてもいいですか」
僕は苦笑して頷く。
松永さんはぺこりとお辞儀すると元気よく店を去っていった。