窓の外では蝉の大合唱だ。クーラーのよく効いた部屋で、彼は木製の椅子に身を預けていた。読みかけの文庫本には、クローバーをあしらった栞が挟まれている。
梅雨明けをあれほど待ちわびたのに、いざ夏がやってくると、暑さも湿気も非常に鬱陶しく、熱波に命の危機を感じるほどである。いつから季節がこんなに人間に牙をむくようになったのだろう。
彼は外の喧騒などどこ吹く風で、鼻歌を歌う。曲は決まって、ムーンリバー。時折音程が外れても、それを咎める者はいない。
雑音の存在しない空間で、彼は時折ひとりで手すさびをする。コンコン、きつねの形は子ども向けの劇場の影絵のようにいきいきと動く。
物語には救いがなければならないか? 彼は自問する。いや、必ずしも要るわけではない、と自答する。だから、今ここに自分がいることに意味がなくても構わない、とも。
監視者はボールペンを走らせる。額に浮かんだ汗は、決して暑さのせいではない。肌寒さすら感じさせるほど、部屋のなかは冷えているのだから。
悲しみや苦しみ、悔しさや嫉妬の類はもう、潰えてしまったようだ。「負」とされる感情もちゃんと人間を人間たらしめるためのものだったのだと、失ってから彼は気づいた。
気づいたところで、何が変わるわけでもなかった。失われたものが戻ってこない、ただそのことがひたすらに虚しい、それだけだ。
価値や文脈を求めがちな人々の中に在って、彼はすっかりすり減ってしまった。だから可能な限りにおいて心を閉ざし、監視者以外との交流を絶ったのだ。
監視者は好奇的な関心をもって彼の一挙手一投足を記録する。話しかけることはないが、彼の表情や所作に見とれてため息をつくことはある。
耳障りな羽音を立てて、蝉が窓ガラスに激突した。気絶したのか絶命したのか、ぴくりとも動かない。彼はそれを一瞥すると、グラスに注がれたアイスティーを傾けて、一口飲んだ。その喉元が動くのを、監視者はじっと観察している。
唐突に、蝉たちの鳴き声が途絶えた。
彼はゆっくりとこちらを振り向く。愛されるのが当然であり、疑うということを知らない、まるで幸せしか知らない幼子のような笑顔を浮かべて。
監視者は固唾を飲みつつそれを記録する。
「死んじゃったね」
彼の声は、かすれているのに澄んでいる、不思議なバランスを保っていた。もっと聞いていたいと思い、監視者は彼の言葉の続きを待った。
「生きる意味を欲しがる人って多いでしょう。みんな初めて生まれてきたから、わからないんだよ。そんなものはどこにもないってことと、あと——」
ざあっと屋根を叩く、鈍く重たい音がした。一瞬で空を支配した積乱雲が強い雨をもたらしたのだ。激しく打ちつける雨粒に、彼の声はかき消されてしまう。
監視者は窓の外を睨んだ。視界に、灰色に支配された景色が広がる。彼が拒絶した世界に降る通り雨。それはまるで、彼の目の前を去っていった人々のように浅はかで冷たい。
窓に次々に生まれる雨粒たちが、一斉に監視者をあざ笑いはじめる。監視者は不愉快そうに顔をしかめた。
彼がなにか話し続けている。監視者はそれを聞きとることができない。監視者は焦りのあまり、ボールペンを床に落としてしまった。それは彼の足元まで転がった。彼は緩慢な動作でそれを拾い上げて、にこりと笑う。
監視者は気づいた。気づいてしまった。彼がこちらへやってくる。越えてはならない一線があると知っていたとしたら、それはそのように認識された時点で既に越えているのと同じであることに。
雨雲が去って、夕暮れがやってくる。彼は一歩ずつ監視者へ近づく。監視者は全身が心臓になってしまったかのような感覚に襲われる。彼がゆっくりと手を差し伸べる。監視者は拒まなければならないはずのその手を、そっと握り返した。
彼の唇が「ようこそ」と動く。監視者は、静かに両目を閉じる。
雨に撃ち落とされた蝉の亡骸が、監視者を恭しく歓迎した。