ついに蝉が鳴き出したようで、盛夏を告げる声が耳に入ってくる。彼はぎこちない挙動でベッドに横たわる青年の肩に触れた。
その手が胸元に滑りそうになるのを、彼は精一杯の自制心で堪えた。青年の寝息は穏やかで、よほどリラックスしているのか、たまに寝返りすら打つ。
クーラーの送風が直接あたる位置になるので、彼は青年にサマーブランケットをかけてやった。
青年の眠りを邪魔しないようにボリュームを絞り、ラジオをつける。トークバラエティー番組が流れる中、彼は台所に立った。
湯を沸かし、そうめんを入れる。その間に薬味の長ねぎを刻み、チューブの生姜を小皿に搾り出す。
茹で上がったそうめんを深めの器に盛り、氷を数個入れる。氷は入れないほうがいいという話をどこかで聞いた気がしたが、忘れた。
めんつゆは濃いめに割るのが彼の好みだ。ひと口、つけ汁にそうめんを浸してすすると、小気味よい音がした。
『というわけで、今日のテーマは《そりゃないよ》でメールを大募集しています! 東京都のラジオネームきゃめるきゃらめるさんから。
《ずっと好きだった子に、人生最大の勇気を使い切って告白したんですが、返事を待ってほしいと言われました。一週間待ちました。一ヵ月待ちました。で、一年待ってまーす! そりゃないよ!》
まさにそりゃないよ、ですね! きゃめるきゃらめるさん、忍耐力がすごいよ。偉い! 番組特製オリジナルステッカー差し上げます』
今年の暑さも苛烈だ。クーラーと扇風機を組み合わせないと、部屋の中でも熱中症になりそうになる。
蝉たちの訥々とした鳴き声がラジオ放送に混じって、なんとも言えない心地になる。孤独ではなく、ましてや孤立でもなく、しかし陸の孤島にいるような、自分が世界から忘れもの扱いされているような。
彼はそうめんを食べ終えると、手のひらに三粒、錠剤を載せた。それを麦茶で飲み下す。本来なら水で飲むべきなのだが、手元にあったのが麦茶だったのでそれで済ませた。
肩を動かすようにして、彼は大きくため息をついた。器のなかで氷はすっかり溶けている。彼は思う、自分はなぜこの氷と水のように、ひとつになれないのだろう、と。それは、単なる肉体的な結びつきを意味しない。彼は本気で考えている、どうしたら自分は、この世界とひとつになれるだろうか、と。
かすかな物音がしたのでベッドのほうを振り返った。青年が目を覚ましたようだった。
「気分はどう」
彼がグラスの麦茶を差し出しながら問うと、青年は不機嫌そうに「最高だね」と答えた。受け取った麦茶を一気飲みした青年は、無理やり口角を上げた。それを見た彼は、さらにこう問いかけた。
「名前は」
「まだない」
「本当か」
「ああ」
「……そう」
彼はごくりと生唾を飲んだ。間違いない。いちいち疑うのも煩わしい。
『続いてラジオネーム麻婆豆腐の豆腐抜きさん。千葉県の方です。
《ダイエットのために自転車通勤を始めようと思い、思い切って上位モデル車を購入しました。防犯対策もバッチリ! と思ってたら、なんと買った翌日の朝にサドルが盗まれていました……》
あらら、そりゃないよ! でも立ち漕ぎでダイエット効果が増すかも? なんてごめんね! 番組特製オリジナルステッカーで元気だしてね』
「だったら、俺が名付けてやろうか」
「なんて」
「『きゃめるきゃらめる』か『麻婆豆腐の豆腐抜き』」
「……嫌だ」
名前などなくてもいい。その理由さえ要らない。ましてや常識や良識など、到底この青年には通用しないのだから。
青年は気怠げに伸びをし、ラジオのボリュームを上げた。
『もう一枚いけるかな。こちら東京都、ラジオネームぱるスケさん。
《我が家はペット禁止の賃貸マンションなんですが、先日、猫を拾ってきて大家さんに内緒で飼っています。一人暮らしが長いので、いつかこの猫ちゃんと家族になれたら。いっそ自分も猫だったらいいのに、なんて半ば本気で考える四十路男子でーす。》
そっかそっかー、まあ夢みちゃうよね! わかるなあ』
「『四十路男子でーす』。ぷっ」
「復唱するな。そして笑うな」
「夢みちゃうのか?」
「うるさい」
「思ったより頑固なんだな、ぱる介は」
「やかましい!」
とんだ拾い物をした。彼はこの状況をもし大家に知られたら、どう説明しようかと眩暈を覚えた。だが、それ以上に、なにか、柔らかくあたたかな感覚が自分の中に萌芽したのを、じんと味わっていた。
【了】