第一話 桐崎くん 

桐崎くん。最初に彼の名前を呼んだのはいつだろう。

彼はいつも背筋をしゃんと伸ばして、キャンパスを歩いていた。人気のない学部だったから、人数のそれほど多くない教室の中で、それでも彼は異彩を放っていた。

友人は少ないように感じられた。私はだから、そんな彼に関心を抱いていた。

「新歓コンパ以来だね。私、小林。小林智恵美」
「……桐崎真人」

教養科目の授業後、私はほとんど興味本位で、彼に話しかけた。

「桐崎くんはさ」

彼の柔らかい所作は、私の興味を引くのに十分だった。

「なんで地質学なんて専攻してるの?」

彼は私と目を合わせることなく、ノートにボールペンで円を描きながら、

「……ロマン、かな」

と答えた。

「ロマン?」

訝しげな顔をする私に、彼は表情一つ変えずに続ける。

「過去を手繰る心地よさ。命を塞ぐことの意味を問えるから」

私はふーん、とうなずいた。

「桐崎くんは過去に生きるタイプなんだね」

ズケズケと失礼な物言いだったかもしれないが、それでも問うてみたかった。

「でもそれなら、ほら、『生きる意味』とかなら、哲学科でもよかったんじゃないの」

そう言うと、彼は興味なさげに机の上の本をコツン、と指で弾いた。

「本にはあまり興味がなくて。考えるだけってのは、苦痛なんだ」
「えーっと、桐崎くんは行動したい派なのね」
「もちろんさ」

彼の表情が一瞬だけ紅潮したのを、私は見逃さなかった。

「小林さん、心理学専攻だったっけ?」
「あ、うん。思ったより難しくて苦戦中」
「どうして心理学を?」

私は不意打ちを食らった気分になったが、すぐに気持ちを立て直した。

「ロマン、ではないなぁ。なんとなく、かな」
「そうなんだ」

桐崎くんは、それを聞くと腕時計をちらりと見た。

「じゃあ、ロマンを見せてあげようか」
「はい?」


大学のすぐ近くに森林公園がある。五限も終わり、夕闇迫る時刻になってから、桐崎くんとそこの小高い丘の上で待ち合わせた。

「遅かったね」

ニコリともせず彼は言う。

「ごめん、出席票、夏菜子の分も書いてたから」
「お友達?」
「うん。最近、学校サボってるみたいだから、私が代筆しないとって思って」
「そう」

彼は丘を下ったあたりで歩を止めた。心なしか、全体的な彼の挙動がゆっくりになった気がした。

「小林さん、お願いがあるんだけど」

彼は静かに言った。

「何?」
「どうか、ロマンを否定しないでほしい」

彼は真顔だ。空は宵闇がそこまで迫っている。私が返答するより早く、彼は言った。

「もう一つだけお願い。僕の名前を呼んでほしい」
「えっ」
「意味なんてないんだ。お友達にも会わせてあげたいし」
「……?」

意味がわからない。彼の言っている、意味を全く解せない。しかし、ここは従った方が良さそうだ。私は若干震える唇で、

「桐崎くん」

そう言った瞬間に、気づいた。気づいてしまった。後ずさりした瞬間に何か、柔らかいものを踏んだ。足を伝って全身に走る、嫌な感触—―気づかなければ、良かった。

つまるところ、彼のロマン、すなわち夏菜子は、ここに埋められている。

きりさきくん。切り裂きくん。

「桐崎くん、あなた、なんてこと……!」

私がようやく絞り出した声に、しかし彼は寂しげな表情を浮かべていた。

「ロマンだと、誰も思ってくれない。わかってくれないんだ。大橋夏菜子もまた、ロマンを笑った」

ということは、彼が言うことの文脈を汲み取るならば、

「まさか、嘘でしょ!?」

被害者は夏菜子一人ではないということになる。

「小林さんは、どう思う?」

この異常な状況下において、彼はどこまでも寂しそうだ。それがどうしても、私には理解できない。

殺人鬼なら、殺人鬼らしく下品に笑ったりしてよ!

その目、憂いを宿した優しい目。駄目だ……私もどうかしてる。

友人の亡骸の上で、私は、堕ちた。あっけなく、きりさきくんに、恋をしたのだ。

第二話 ごめんね