第五話 日常/非日常

桐崎くんが夏風邪を引いた。熱が38度近くまで上がり、ベッドから起き上がれないという。その一報をラインで受け取った私は、ビタミンウォーターとお粥の材料を持って彼の住むアパートへ向かった。

場所は何となく知っていたが、行くのは初めてだった。小ぎれいな、木造モルタルのデザイナーズアパート。聞けば家賃は5万3千円、大学生が一人で住むにはやや高い印象だったが、桐崎くんはバイトでそれを稼いでいるという。

「こんにちは」

中に入ると、最低限の家具だけが設えられていて、さっぱりとしていた。彼らしいといえば、彼らしい。男子大学生の一人暮らしにしては、そこそこ綺麗にしているようだ。

「あ、待ってたよ……」

ふとんをかぶったまま、呻くように桐崎くんは言った。

「大丈夫? じゃ、ないよね。今、お粥作るから」
「うん。ありがとう」

私はこの時、ハッとした。お礼なんて言われたこと、なかったな。

台所で私は卵をときながら彼に声をかけた。

「病院には行ったの?」
「いや……行ってない」
「どうして?」
「医者が嫌いだから」

そうか。桐崎くんはそういうタイプなのか。確かに、何かと上から目線の医師ならたくさん知っている。こちらは病気で弱っているというのに、ここぞとばかりにそこに漬け込むのか、言いたい放題言うような類の、残念なお医者さん。

「私も病院は苦手。消毒液なのかな? あの独特のにおいが」
「違う。消毒液のにおいは、僕は好きだよ」

私はふき出した。なんというか、彼らしいと思ったからだ。

「嫌いなのは医者だけ」
「そう。じゃあ、せめてお粥とビタミンウォーター、摂取してね」
「うん」

出来上がったお粥を差し出すと、彼はぺこりとあたまを下げ、少しずつ食べ始めた。

「お味はいかが?」
「塩加減がちょうどいいね」

私は嬉しくなって、彼に笑顔を向けた。しかし、わかってはいたが彼が微笑み返すことはない。

「それにしても、この時期にそんな熱出して、大変だね。外だって暑いのに、クーラーがもうフル稼働じゃない」
「八王子は盆地だからね。夏暑くて冬寒い。季節をダイナミックに味わえると思えば、悪くないよ」
「うーん、ものは考えようだなぁ」

ふと壁を見ると、壁掛け時計があった。シンプルな部屋にあってやや異質な感じがする。レトロなデザインが、私の関心を引いた。

「あれは?」

私が問うと、彼はお粥をハフハフしながら、こう言った。

「いい質問だね」
「なんで?」
「智恵美には特別に見せてあげるよ。その時計を外してごらん」

私は言われるまま、時計を壁から外した。少し背伸びして、丁寧に時計に触れる。だが、壁に現れたものが目に飛び込んできて、私は時計を落としそうになった。

血痕、だった。

「いつのだったかな」

何事もなかったように彼は言う。

「誰のだったかな」

まるで懐かしい思い出でも語るかのように。

「……忘れちゃったな」

お粥を食べきった彼は、ビタミンウォーターの蓋を開けた。私が完全に硬直していると、彼は頷き、

「甘くないやつ、買ってくれたんだね。飲みやすくて助かるよ」

そう言って飄々と飲み干してしまった。

わからない。わかるはずがない。どうして現実から目を逸らし続けることができるだろう。今、目の前にいるのは間違いなく、自分の友人を殺した殺人鬼なのだ。
なのに、私はどうしても止められない。自分の中にある、桐崎くんに対する想いを。

誰か、お願い、誰か私を断罪してくれ―――――

「美味しかったよ」

私はハッとして振り返った。彼が、自分で食器を片付けていた。

「おかげで、少し楽になった。熱も下がってきたみたい」
「……………」
「あれ、智恵美こそ顔色悪いよ。大丈夫?」

私は、時計をようやく床に置くと、ヘナヘナと座り込んでしまった。

「どうしたの?」

桐崎くんが声をかけてくる。
今、私を気遣う桐崎くん。
私の作ったお粥を平らげてくれた桐崎くん。
――――殺人鬼の、きりさきくん。

「桐崎くん、あなたは……」

私は意を決して、震える唇でこう問うた。

「あなたは、一体、何者?」

――瞬転、彼は初めて私に、優しく微笑んだ。

第六話 噂