ひと昔前、「フロム・ヘル」という映画が流行ったことがあった。切り裂きジャックを題材にした映画で、娼婦の女性が連続して殺されていく実際にあった事件を描いたものだ。
それを知ってか知らずか、とある日の午後にショッピングモールでウィンドウショッピングしている時に、桐崎くんはこんなことを言いだした。
「映画でも観ようか」
「いいね。あ、でも……」
私は財布の中身を確認した。バイトの給料日前とあって心もとない金額しか入っていない。それを見越していたのか、彼は涼しい顔で言った。
「今日は水曜日でしょ。学生割引の日だよ。千円で観られる」
「そっか。じゃあ、行こう」
ショッピングモールに併設されたシネマコンプレックスには、家族連れやカップルでそこそこに賑わっていた。
「あ、これ観たかったんだ。『世界から猫が消えたなら』。主演の子、かっこいいよね」
「じゃあそれにしよう」
「え、桐崎くんも選びなよ」
「いや、智恵美がいいっていうのならきっと、いい映画なんでしょ」
「そう、かな」
彼の言葉の真意は図りかねたが、せっかくの機会なので映画を観ることにした。
映画の予告編上映が始まると、私はこっそり彼の横顔を見た。普段は意識しないが、端正な顔立ちをしている。スクリーンを見つめる瞳は、やはりどこか寂しげな表情に満ちていた。
映画の内容はまったく頭に入ってこなかった。ただ、映画の主人公が大事な決断をするシーンで、桐崎くんの口角が一瞬、上を向いたような気がした。
エンドロールまでがあっという間に感じられた。気になってちらりと横顔を見る、これはもしかしたら私だけの特権なのかもしれないのだ。
「面白かったね」
映画が終わって開口一番、とりあえず私はそう言った。
「そうだね」
桐崎くんも、ぽつりと返した。それからは無言で、シネマコンプレックスを後にした。
「あ、雨だ」
ショッピングモールを出ると、パラパラと小雨が降っていた。予報外れの雨だ。小雨程度だが、それは彼を戸惑わせるのに十分だった。
「そんな――困る」
「どうして? 傘がないの? 折り畳み、貸してあげようか?」
私が言い終えるより早く、彼は走り出していた。
「えっ!?」
びっくりする私を置いて、彼は走り去ってしまった。見えなくなるのに時間はかからなかった。人ごみをすり抜けるようにして、彼は消えた。
……そうだ。何を私は驚いたのだろう。予報にない雨で彼が困ることといったら、一つしかない。私は呼吸を整えると、『あの場所』へ向かった。
案の定だった。彼は傘も差さずに、森林公園の丘の麓でスコップ片手に必死に夏菜子を掘り起こしていた。こんなところを人に見られたらどうするのだろう。私は彼の姿を隠すためにレインコートと雨傘を持ってきて、その場で広げた。しかし彼は私に気付かないくらい夢中だったらしく、私が小さくくしゃみをして初めて、
「あ……智恵美」
私の方を向いた。その表情は鬼気迫るものがあり、私は息を呑んだ。しかし、それをどうにか押し殺して、声をかけた。
「どうしたの、急にいなくなっちゃって」
「雨で――」
桐崎くんは、地面に正座のようにして座り、夏菜子の腕をツンツンとつついた。
「ディケが早く進んでる」
「そうなの」
「命は巡るものだろ。ほら、ここ」
彼が指差したのは、夏菜子の白い首すじだ。
「ここから、新しい命が始まるんだ」
「……」
初めて見せた、柔和な表情。シチュエーションにまるで似合わない。不釣り合いな笑顔に、それでもほだされる自分が嫌になる。
私は堪らなくなって言った。
「夏菜子は、終わったんだよ」
「そうだね。尊いことだよ」
「尊い?」
「ロマンだよ。大橋夏菜子はロマンの一部になったんだ」
私は、なんて人を好きになったんだろう。