それは確かに、二人にとっては優しい時間だった。不自由と抑圧を絵に描いたような場所ではあったが、それでも二人は、その空気に抗するごとく、不器用ながらも真剣に心を育てあった。
少女——雪は、ちらりと目が合うだけで、顔を赤らめてしまうような純真な少女だった。彼もまた、そんな雪の様子に視線のやり場を困らせ、いつも頬を人差し指でぽりぽりとかくのが癖のような純朴な青年だった。
晴れた日には昼食後の服薬時間から夕食前のわずかなに自由の許された隙間に、男性病棟と女性病棟からそれぞれやってきて、中庭へ向かい、二人そろってすずかけの木陰に腰掛けた。多くの言葉を交わさずとも、ゆっくりと移りゆく中庭の季節の草花を一緒に見るだけで、二人は十分に幸せだった。
他の患者たちが散歩をして、ソフトバレーなどのレクリエーションに勤しんでいる姿から一線を画すように、いつも二人は隣り合って座っていた。何を話すでもなく、ただ「一緒に」いた。それだけで、お互いの気持ちは満たされていた。
もしも出会う場所が違ったならと、青年は何度も思った。午後4時半になったら鍵を掛けられるような精神科の病棟の中庭ではなく、もしここが、街中の公園だったなら。
この日も青年と雪は手も繋げずに逢瀬を終えた。それでも、二人を包む風ばかりは優しかった。
それだけでよかった。いや、それがよかった。二人の間には確かに、優しい時間が流れていたから。
風向きが変わり、二人の間に不穏な空気が顔を出し始めたのは、夏の始まりの頃だった。突然、青年の退院が決まったのである。息子の大学への復学を焦った彼の両親が、主治医にむりやり詰め寄るような形で、彼本人になんの相談もなく、退院を決定してしまったのだ。彼の父親は弁護士で、「これ以上息子を閉じ込めるのなら、法的手段も辞さない」と病院を脅してきのだという。
入院から90日以上が経過しており、彼から算定される診療報酬の点数が激減したことで、病院側もこれ以上彼を入院させておくことはデメリットにしかならないと判断したらしかった。病院は彼が退院すれば、新規入院患者の受け入れによって高い点数の診療報酬を得ることができるからだ。そんな身勝手な事情に振り回される形で、二人は引き裂かれた。
追い出されるような形で青年は病院を退院させられた。彼はどうにかすがるような思いで、担当ナースに一通の手紙を託した。そこに彼は、自分の自宅の住所と電話番号を記していた。約束の一つも、したくてもできなかった、せめてもの罪滅ぼしとして。
泣くのは、絶対に違うんだと、そう強く自分に言い聞かせた。だって次に逢える時は、きっと街中の公園のベンチや、君の好きなオルゴールのBGMが流れる喫茶店に違いないのだ。
これは、いずれ再び出逢うための「いっときの別れ」にすぎないのだから。彼はそう信じて疑わなかった。
ナースからその手紙を渡された彼の主治医——裕明の父——は、「確認」と称して中身を検閲した。蔑みの濃く冷たい視線で内容をさっとなぞると、「有馬雪の治療に支障をきたす」と判断し、看護助手にシュレッダーにかけるよう命じた。
そのような事情を全く知らない雪は、その日も晴天であることを病室の窓から確認すると、作業療法で編んだリリアンのブレスレットを左手首に二重に巻き、ほんの少し頬を赤らめて中庭に向かった。
いつもなら、中庭と廊下の境目あたりで彼の姿を見ることができた。背が高くて、よくジーパンを好んで履いて、紺のスニーカーがよく似合う。トップスはTシャツが多いけれど、時々おかしなプリントのされたデザインを着てきては、私を笑わせてくれる。でも本当はシンプルなポロシャツが好きなことを知っている。今日は、どんなファッションの彼に逢えるだろうか。
しかし、どんなに待っても彼が現れることはなかった。もしかしたら、調子が悪いのだろうか。どんなに心配をしても彼に何もできない自分が、雪はどこまでももどかしかった。
すずかけの木にしがみつくミンミンゼミの声が雪の鼓膜に打ちつけるように響く。自分の無力さを責められているようだった。他の患者たちも、いつもと違ってひとりぼっちで木陰に座る雪を気にかけている様子だった。
雪はひたすらに待った。その日も、次の日も、またその次の日も、雪は男性病棟のほうに微かな、でも確かな気持ちを、暑さと孤独に耐えて送り続けた。
雪の目の前に、果てた蝉の遺骸が落ちて転がった。その夏はあまりにも暑すぎた。少女のささやかな祈りなど容易く溶かしてしまうほどに。
拒食症で骨が露出せんばかりに痩せ細った腕を、雪は空へと伸ばして天を仰ごうとした。見上げたそこには、彼女の腕よりよほど逞しいすずかけの枝が伸びており、ふさふさとした葉が彼女を厳しい陽光から守らんと、悲しげに揺れていた。
何も悟らないはずの蝉達が、その命を燃やすように壮絶に鳴き上げては次々とすずかけの木からぽろりと落ちて、うつし世に別れを告げていた。その光景は、誰にも届かないという意味で、ひたすらに虚しい予言のようであった。
どんな過去があっても人は「今」にしか生きられないのだから、過去を理由にいつまでも足踏みしてはいけない、と教えられてきた。「未来」とは「今」の延長線上にあるのではなく、偶然と奇跡が重なり続けて結晶化したものなのだ、とも。
しかしながら、生きることとはこうした綺麗事や整った言葉で着飾らないと耐えられないほどに生々しく醜いものであることを、裕明は感覚で理解している。
今、目の前に座っているこの子もまた、いつかは必ず逝く。至極当然のことだし、誰だって同じことなのに、裕明にとってはそれがどうしようもなく深い虚しさを胸に去来させることであった。
名前のわからないその感情に、裕明はとにかく戸惑っていた。不安とは全く異なる感覚で、心臓は拍動を強めているのだ。
クロッキー帳に走らせている手が、少しだけ震えた。
「大丈夫ですか?」
裕明の挙動を心配した美奈子が彼の顔を覗き込むようにして声をかける。
「あ、スミマセン。ちょっと、めまいかな」
「それのせいですか」
「え?」
美奈子は裕明の左手に施された包帯に言及した。
「どうしたんですか? その怪我」
裕明は「ああ、これですか」と眉毛を下げて力なく笑った。
「わからないんです。気がついた時には巻かれてました。何人も使っているから、この体はしょっちゅう、あちこち怪我をします」
「そうなんですか」
美奈子は、ふと疑問に思ったことを率直に裕明に伝えるために、こんなことを質問した。
「何人、いるんですか?」
「えっ」
それは忌むべきことでも、腫れ物のように避けるべきことでもなく、大切なことだと美奈子が感じたからだ。
「どういう表現がいいんだろうなぁ。あの、『何人で』その体を使っているんですか?」
裕明は美奈子を描くその手を止め、少しの間黙り込んだ。やっぱり失礼な質問だったのかなと美奈子が焦りと懸念を感じ始めた矢先、裕明はこう返答した。
「わからないんです」
「えっ」
「そのカラーボックスの三段目に、一冊、ファイルが仕舞ってあります」
「ファイル?」
「僕の、カルテです。そこに書いてあるはずなんです。これまでに確認されている僕の別人格たちのことが」
「え……」
裕明は、美奈子にそれを読むように促した。通常の医療現場では患者のカルテを本人の目に届く場所に置くなどありえないことだ。しかし木内は、裕明への信頼の表明手段の一環として、「裕明のカルテは裕明自身が管理すべきもの」としてこの「白い部屋」に保管しているのだ。
そこにも、木内の「患者との信頼関係を基盤とする」診療方針が如実に現れているといっても過言ではない。
美奈子は最初こそ躊躇したものの、意を決しそっとカラーボックスに手を伸ばし、白い表紙のファイルを取り出した。それは片手ではとても取り出せないほどの厚みがあり、その重さは木内と裕明の歩んできた年月の長さを感じさせた。
ゆっくり表紙をめくると、まず冒頭に裕明の個人情報が事細かに載っていた。誕生年月日や出生地、生育歴などが、筆圧のそんなに高くない、やや判読に時間を要するクオリティーの文字で記されている。このクセ字なら何度も見たことがある、間違いなく木内の筆跡だ。
インデックスで区切られた名前たちに視線を落とす。そこにはそれぞれ「松木智行」「木本秀一」「佐久間泰弘」と表題がつけられていた。どうやら彼の中には3人の人格がいるらしい。裕明本人も含めれば4人が、一つの肉体に宿っていることになる。
美奈子は食い入るようにカルテを読み進めた。一ページ一ページに裕明の大切な情報が、歩みが、想いが詰まっている。だから、その一言一句を取りこぼさずに心に留めたかったのだ。
美奈子がなぜそんなことを考えるに至ったのか。そこに説明を求めることは、人がなぜ人との繋がりを求めるのかを事細かに解説しようとするのと同じくらい野暮なことだ。
人が人と出会い、深い穴に落ちるよりも速く惹かれてゆくことに対して、万人にとって了解可能な理由など逐一必要ないことを、美奈子は身をもって感じていた。
美奈子の喉元が固唾を飲んでゆっくりと動く。それを目にした裕明はぎこちない手つきでクロッキー帳の新しいページを開き、真白い空間に先の丸められた8Bの鉛筆で、カルテを読み進める美奈子の真剣な横顔をスケッチし始めた。彼を動かしたのは、ほとんど本能の領域の何かであった。彼女の長いまつ毛を描こうとすれば、味わったことのない緊張に、彼の心は熱に浮かされたようにくらくらと揺れる。
まつ毛の毛先のために何度も鉛筆を滑らせながら、人生とはおよそ200万回にも及ぶ選択の連続であると、いつか読んだ哲学書に書いてあったのを思い出していた。あらゆる分岐点を経ながらやがて辿り着くべき人と道が偶さかに交差すること、それを人は「めぐりあい」などと呼びたがることも。
まさに今、裕明と美奈子は大きな岐路に立っていた。二人にその自覚はなくとも、やがて重大な決断を求められる道を、自分たち自らが選んだことを、誰も教えてはくれない。
「白い部屋」の開け放されていた小窓から、優しい風がふうわりと舞いやってきて、二人の頬を優しく包み込んだ。それは「過日の二人」を見守ったそれによく似た色彩をしていることを知っていたのは、庭先で咲くガーベラたちだけであった。
第十九話 慈愛の罠(五)赦し に続く