美奈子が必死に走って廊下まで出ると、あおいが山積みの書類を携えて外来棟から歩いてくるのが見えた。あおいはひどく驚いて、書類ごと小さな体を跳ねさせた。
「あー、美奈子ちゃん! どこに行ってたの? 院長が心配してたよ」
「すみません。私、木内先生に謝らなきゃならないです」
「え、なんで?」
あおいが首を傾げる。
「わかりません」
「なんじゃそりゃ。岸井さんもなんだか元気がなかったしなぁ。今日はそういう日なのかな。仏滅だしね、よく知らないけど」
「あおいさん、私、人を傷つけてしまいました」
「ん?」
「だから、本当は謝らなきゃならないのに、私……」
その場にしゃがみこんだ美奈子が途端にほろほろと泣き出すものだから、あおいはますます困ってしまう。
あおいは「もー」とため息をつきながらも、「ほら、顔を上げて」と美奈子に優しく声をかけた。
「すべてはタイミングだと思うよ。謝れたときが、その時だったってこと」
「そうかな……」
「傷つけた自覚があるなら、半分は謝ったことになると、私は思うよ」
「あおいさん」
「ん?」
「ありがとう、ございま……」
言いかけて、美奈子はそのまま床に倒れこんでしまった。
「美奈子ちゃん!?」
「僕、また人を傷つけました」
木内と岸井の姿を見るなり、裕明は懺悔をするように、また力なくうな垂れるように頭を下げた。白い壁面に体をだらりともたれかけさせており、伸びすぎた前髪が風に揺れている。
木内は、裕明に静かに歩み寄った。
「何があったのかは、訊かないよ。裕明が自分で話したいと思わない限りは」
木内がそう声をかけると、その隣で岸井も優しく頷く。それでも裕明の声色はなおも暗い。
「僕、もう二度と、この部屋から出ちゃいけないんだって、思い知らされたんだ」
「うん、そっか。でもじゃあ、困っちゃうな」
「なにが」
「お前がここから出なくなってしまったら、玄関の花たちの世話は誰がするんだい?」
「僕なんかに触れられたら、きっと花たちだって汚れてしまうよ」
木内はいつも裕明が使っているロッキングチェアに腰を下ろした。
「裕明。人間ってそもそも、美しい?」
「……ううん。全然違うと思う」
「だね。自分も同意見」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
岸井はゆっくりと、萎れかけた花に水を注ぐような優しさで「謝ることじゃないよ。自分では驚きはしたかもしれないけれど」と片手で裕明の頭を優しく撫ぜた。
「誰しもが通る道だからね。裕明、あなたの場合、それがちょっと変わった形だった。でも、それだけだよ」
岸井は裕明にそう伝えてから、一度だけ彼の瞳をじっと見つめ、微笑みを残して部屋を去っていった。
『でも、それだけ』。
そっか。それだけ、か。
「なぁ裕明。お腹すかない?」
木内は裕明のすべてを包み込むように声をかける。
「今日の昼ね、スペシャルなんだ。岸井さんプレゼンツのちらし寿司」
――僕は、誰から許されようとしているんだろう?
「ちらし寿司ってさ、仕上げは刻み海苔もいいけど、そうそう、メイさんから教わったんだけどね、粉山椒をひと振りしてやると、風味がぐっと引き締まるんだって」
僕は、誰に、謝っているんだろう?
「具材はね、奥多摩産の山菜と早採れきのこ。最高じゃない?」
誰に謝っているのか、そんなことすらわからずに、弁解の言葉ばかり浮かんでくる、自分の浅ましさが、本当に嫌です。
(知った顔をしないで。あなたは誰よりも愚かで、誰からも必要となんてされていないくせに、あんな醜態を晒してまで、まだ生きているじゃないの)
「……」
(生きているじゃないの。あなたは、生きているじゃないの)
「うるさい……」
(子守唄なら歌ってあげるわ、地獄で)
「……うるさい……うるさい……」
(堕ちろ、さっさと)
「裕明?」
木内が裕明の異変を察し、素早くロッキングチェアから身を起こすと彼を支えるようにしてその背中を優しくさすり始めた。それでも、裕明の中で沸き立つ過日の悲鳴の残響が彼を激しく責め立てるのをやめることはない。
(助けて、助けて、お兄ちゃん。苦しいよ)
裕明はもたれかかっていた白い壁を、怪我を負っている左手で強く殴打した。そんな様子を木内は決して咎めることなく、懸命に寄り添い続ける。
「深呼吸、できるかい」
「うるさい……うるさい」
「裕明、大丈夫だ。何も怖くないよ」
(助けてよぉ)
「うるさいっぁぁああああ!!」
時計の秒針、差し込む陽光、吹き抜ける風、何もかもが、何もかもが自分に襲いかかってくる――そんなわけは、ないのだけれど――そんな感覚に陥った裕明の姿を、それでも木内は直視しないわけにはいかなかった。
「裕明、大丈夫だ。僕はここにずっといるよ」
(私たちもずっとここにいるよ)
「黙れ、黙れよ! 黙ってくれよ!」
「裕明、誰が何と言おうと僕はお前を愛しているよ」
「ああああああーッ!」
木内はたまらなくなって裕明を強く抱きしめた。裕明の苦しみは自分には決してわからないけれど、わからないからといって見捨てることと知ったつもりになるかのことは脈絡がまるで異なることを、よく理解しているからだ。
裕明の中で大合唱が起きている。それは、「彼」に殺された者の悲鳴であったり、「彼ら」を殺した者の笑い声であったり、あるいは全てを生み出し統べる「ゆりかご」の嘆きであったりして、どこまでも残酷な不協和音を奏で続ける。
脳とは小さな宇宙だという。裕明のそれは今、あまりにも開かれすぎている。あらゆる痛みや苦しみを飲み込んで、果てなく膨れ上がり、彼の自我をみるみる侵食するのだ。
木内には痛いほどわかっていた。裕明に対して、既存の精神医学というものが何の役にも立たないことは。それでも、そばにいてほしかった——そばに、いたかったから。
彼の前では、医師などではなく、一介の人間としているべきだと思った。木内は裕明がぼろぼろと流す涙を節くれだった親指で拭ってやる。
「そうだね。つらいね」
やがて興奮状態から錐体状に落下させて糸の切れたパペットのようにふっと意識を手放した裕明を、木内はどうにかかかえてベッドに寝かせた。
「どうか、ゆっくり休んでくれ」
裕明の頬には、一筋の涙が伝っていた。
木内が去ってしばらくしてから、白い部屋で裕明がうっすらとまぶたを開き、天井に向かって手を伸ばしていたことは、誰にも知られない些事である。
「数えなきゃ……」
裕明の口から、トロトロと言葉が零れ落ちる。
「でも……何を、数えたらいい……?」
(丁寧に、数えなさい)
「……何を?」
(あなたが)
「僕が……?」
(今までに葬った人の数)
「……はい」
素足で廊下に出ると、真夏にもかかわらずひんやりとした感覚を得た。それでも爪先はじんじんと熱を帯び、一歩進むたびに鼓動は強く打つ。
生きている、いや生かされている。そのことを、誰にどう贖えばいいのだろう。わからない、わからないけれど自分はこうしてここで呼吸をしている。
(数えようか、此岸の夕暮れの虚しさを。そうしてモザイクをかけ続けるんだ、ありとあらゆる生きづらさに。)