エピローグ ゆく夏に穿つ

木内が「白い部屋」の中央で腕組みして、「むーん」と何度もうなっている。岸井はそんな木内を「そんなに難しいことじゃないでしょ」と促すのだが、やはり木内は「むーん」と首を左右に傾げている。

「ピカチュウとピチューの違いがいまだにわからない」

白い部屋の白い壁は、大きなキャンバスとなった。それを喜んだ秀一が、朝からずっと壁いっぱいにポケモンのイラストを描いている。

「これ、だーれだ」

ときかれた木内が、秀一の描いた黄色くて耳の長いなにがしかを指さし、自信満々に「ピカチュウ!」と答えたところ、「違うってば! ピチューだもん」と機嫌を損ねられてしまったのである。

とうとう、この日が来た。いや、ついに来てしまった、というべきかもしれない。

裕明を解放する日が訪れたのである。

裕明が自ら自由を望むことこそ、木内と岸井がなによりも願い、また恐れていたことだった。

物心両面でこれからもサポートはするものの、彼をもうこの場所に引き留めておくことはできない。それは、木内と岸井がつけるべきけじめでもあった。

別れの日。秀一の人格が現れたので、最後に、彼に白い部屋を思うままらくがきさせているのである。心底楽しそうな様子の秀一に、木内と岸井は「これでいいんだ」と自分たちに言い聞かせていた。

クレヨンが擦り切れるまでらくがきを楽しんでいた秀一が、「これ、だーれだ」と、今度は肌色で描かれた二つの楕円形を指差した。

「うーん、こんなポケモン、いたっけなあ」
「違うよー」
「わからないなあ」
「これは、パパとママ!」

こらえきれずに岸井は泣いてしまう。たまらなくなって、木内は秀一を強く抱きしめた。


ヒグラシの鳴き声が耳に心地よい。ふたりの部屋で、裕明は白いキャンバスに向かってスケッチをしていた。描かれているのは、木製の椅子に座った美奈子である。耳もとを気にして、首を動かす美奈子に、裕明が声をかけた。

「美奈子、あんまり動かないで」
「ごめん。ピアスが見えないほうがいいかなって」
「赤いから?」
「うん」
「大丈夫だよ。『誰が描いても』、それは『僕』の作品だから」
「そうだね」

やがてキャンバスに浮かび上がってきたのは、背中に羽の生えた美奈子の姿だった。これで完成だといわれて、美奈子は思わず動悸を昂らせる。

「これじゃ、まるで天使だよ」
「そうだよ」
「え」

顔を真っ赤にして俯く美奈子の肩に、裕明は優しく手を添えた。その手をすぐに握り返す美奈子。

「……ばか」
「うん、あたり」

許されることのない罪なら、ふたりで背負えばいい。消えることのない痛みなら、ふたりで感じればいい。果てのない苦しみなら、いつまでもふたりで分け合えばいい。生きることとは常に、痛みを伴う歓びなのだから。

――終わりのないものには、価値も意味もない。翻って人の命は、有限だから価値がある。心臓は、いつかは止まる。だからこそ尊い意味を持っているのだ。

並木の梢が深く息を吸って、
空は高く高く、それを見ていた。
日の照る砂地に落ちていた硝子を、
歩み来た旅人は周章てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んで来るあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗て陥落した海のことを
その浪のことを語ろうと思う。
騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿いの道を乗手もなく行く
自転車のことを語ろうと思う。

小さな部屋でふたりの影が揺れる。すぎゆく夏に、ふたりは確かな証を穿つ。僕は、いや僕らはここにいて、不器用に痕を遺しながら、それても生きてゆくのだと、今ここに誓おう。誰にでもなく、他ならないふたりと容赦なく巡りゆく季節に、「僕ら」はともに生きていく、と。

END・・・

・・・その後のふたり Re:ゆく夏に穿つ へ