翌日、左手首に包帯を巻いた葉山が出勤したものだから、香織は瞠目した。
「どうしたんですか、それ」
香織はすぐに葉山のもとへ駆け寄った。
「なんでもない。ちょっとした怪我だから心配は無用だよ」
「『ちょっとした』には見えません」
「大丈夫だってば」
香織はしげしげと包帯を観察した。
「病院には行ってないんですね」
「え、なんでそう思うの」
「巻きが、素人のそれです。誰かに巻いてもらったんですね」
「いや、まあ、うん」
「どなたにしてもらったんですか」
真顔の香織に気圧されそうになる葉山は、「あ、捜査会議始まっちゃう」と言い訳して自分のデスクに逃げこんだ。香織が「会議は午後でしょう」と指摘すると、葉山は気まずそうに左腕を資料で覆い隠した。
「そんなことより、若宮さん」
「なんでしょう」
「よかったら今日の夜、ご飯でもどう? 話したいことがあって」
突然の展開に、香織の手が止まった。公私混同もいいところだが、周囲の人間は皆、見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりを貫いてくれている。
「はい、もちろん」
二つ返事で香織は、にっこりと笑みを浮かべた。
調理実習で焼いたクッキーを持って帰ってもよいと言われて、はるかの心はときめいた。姉に食べてもらおう。どんな感想をもらえるかな、と。
病室の扉をノックしようとして、しかしはるかは躊躇した。部屋の中から、すすり泣く声が聞こえてきたのである。はるかは、羽の折れた小鳥を慈しむような優しさをもって、そっと扉を叩いた。
「お姉ちゃん、クッキー持ってきたよ。私が焼いたの。先生には売り物になるレベルだって言ってもらえたよ」
るいはしばし顔を伏せて泣き続けていたが、やがてはるかをじっと見て言った。
「……いつもすみません」
「お腹すいてる? すいてなくても食べてほしいな、なんて」
はるかが差し出したクッキーを、るいは手にとってひと口食べた。すぐに、その表情がほんの少し柔らかくなったのがはるかにもわかった。
「ほろほろしてて、香ばしくて、おいしいです」
「やった!」
それから3つもクッキーを食べたるいは、「ありがとうございます」とにこりとした。はるかは、妹とはいえるいの気持ちに土足で踏み込みたくなかったから、るいがなぜ泣いていたのか積極的には尋ねなかった。しばらくの間、専門学校での出来事など世間話に花を咲かせた。
「それでね、今度この髪、ばっさり切ろうと思ってるんだ」
「そうですか。せっかくそこまできれいに伸ばしたのにもったいない気もします」
「まあね。でも、もう決めたんだ。秋川さんにメッセもした」
はるかがその名前を出した途端、るいの挙動がぴたりと静止した。
「秋川……」
「お姉ちゃん?」
「秋川、こうすけ?」
はるかはハッとした。るいの両手を取って、「もしかして、記憶が戻って……」と言いかけたところへ、るいが言葉を挟んできた。
「あの人、この街にいるの?」
「え?」
姉は、何を言っているのだろう。はるかが戸惑っていると、るいははるかをまっすぐに見て、こう告げた。
「申し訳ないのですが、私はあなたの姉——古城るいさんではありません」
「え、え?」
「私は、私の名は、これからあの人につけてもらうんです」
「え……?」
見つめる視線は確かに、姉のものではない。はるかはそう直感した。
奇跡など、偶発的な事象ではなく緻密に縫い込まれたキルトのシームのような必然だと、白峰は考えている。科学で証明できないものを思考から排除する営みは、宇宙への冒涜であるとも。
この日の夜は久々に雨になった。相変わらず傘をさそうとしない浩輔の素直さとかたくなさに、白峰はほんの少しだけ心を痛めていた。すっかり濡れて『はなとゆき』に現れた浩輔は、たまごサンドとブレンドを注文した。
「夕飯、それだけで足りるの?」
「今日は二人で営業だったから、あまり腹が空かなくて」
「そう」
浩輔は小さくくしゃみをした。白峰がたまごサンドと一緒にタオルを差し出すと、浩輔は軽く会釈した。ここのたまごサンドは、アクセントに刻み三つ葉が入っている。それが密かな浩輔のお気に入りだった。
コーヒーが到着した頃、浩輔のスマホが鳴った。はるかからの、メッセージではなく着電だった。連絡先こそ交換していたが、はるかから電話がくることはこれまでなかった。浩輔はカットの件だと思い電話に出た。
「もしもし」
「秋川さん」
はるかが憔悴しているのは、一言声を聞いただけで伝わってきた。
「どうしました」
「こんな時間にごめんなさい。実は姉が、どこかへ行ってしまったんです」