Last Case.ひととほし

その女性はその場でくるりと一回転して、葉山にふわりと微笑みかけた。

「苦しかったのね。いえ、今も苦しいのでしょう」

浩輔から解放された葉山は、涙を腕で拭い顔を上げた。

「それでいいのよ。苦しいのは、あなたが生きている証だから」
「あなた、いったい……」

香織は呆然としてつぶやいた。その女性はなおも続ける。

「勇気は出すためにある。優しさは差し出すためにある。苦しみはほどかれるためにある。そしていのちは、巡るためにある。そうよね、浩輔?」

浩輔はまっすぐに女性を見つめて、「ああ」と首肯した。

「浩輔! 私の名前は、なあに?」
「きみは……」

浩輔は言い淀み、頭を横に振った。それを見た女性は、踊るように浩輔へ近づくと、すらりとした指先で彼の頬に触れた。

「浩輔。奇跡は必然の域を出ないの。私の愛した人は、それがわからない意気地なしなんかじゃない」
「でも、こうしてまた逢えたことに意味はないのか?」
「奇跡に意味を求めるのは、それこそ無意味よ。浩輔にももう、それはわかっているはず」
「きみは、じゃあどうして」

また、俺の前に現れてくれたんだ。

「この女性ひとは、自らいのちを絶とうとしていた。あなたへの想いが破れたことを苦にして、あなたが使っていたハサミを己の首筋に走らせて」
「えっ……!」

浩輔をはじめ、その場にいる誰もが驚きを隠せなかった。

「私は遠い宇宙から、それを見ていた。このままではこの女性ひとは浩輔のせいで、巡ることのないダークマターになってしまう。宇宙のことわりとして、誰かを闇に堕とした者は、自らも巡ることを赦されなくなる。だから私は、地球ここへ来た」

浩輔は、固唾を飲んだ。

「浩輔。夢は覚めるためにある。そろそろ、そのときが来たみたい」
「……きみに名前をつけて夜空に還すか否か。それが、俺にとっての『選択』だったんだな」

——心のままに。

その言葉に背中を押されて、浩輔は、はっきりとした口調でこう告げた。

「ランパトカナル」

浩輔は続ける。

「それがきみの名前だ。他ならないきみのことだし、光のすべてだし、いのちの言葉だ」

ランパトカナルは、これ以上ない柔らかさで浩輔を抱きしめた。

「ありがとう、浩輔」
「うん」
「大好きだよ」
「うん」
「またいつか」
「うん」
「さようなら」
「うん……」

女性はゆっくりと目を閉じた。その体が崩れ落ちる前に、浩輔がベンチの上にそっと横たえてあげた。その目からは、一筋の涙が伝っていた。

見守ることしかできなかった香織は、ぽつりとつぶやいた。

「ランパトカナル、か」

ラ、ン、パ、ト、カ、ナ、ル。その響きに、葉山は奇妙な高揚感を覚えた。そんな様子を看破したかのように、香織は言った。

「もしかしたら、いのちを愚弄する者を裁く言葉でも、あるのかもしれない」

香織は、銃口を夜空に向けた。

「そう簡単に性癖が消えるもんですか。葉山さん、今後もし、私以外の誰かに手をかけようとしたら、ただではおかないですよ」

いたずらっぽく笑う香織は、そのまま引き金を引いた。すると、夜空に無数の紙吹雪が舞った。呆気にとられる葉山。

はるかはるいに駆け寄り、手のひらを頬に当てる。そのぬくもりが伝わったのか、紙吹雪舞う中、るいは目を覚ました。

「はるか……?」
「お姉ちゃん!」

はるかは人目も憚らずに、るいを抱きしめてわんわん泣いた。

浩輔は夜空を見上げた。紙吹雪の間から、確かにあの子の煌めきが見えた。


「よし、完成っ」

肩より短いベリーショートヘアになったはるかは、出来栄えに満足げに笑った。

「お姉ちゃん、どう?」
「とても素敵だよ」

仕上げのスタイリングをする浩輔も、どこか嬉しそうに頷いた。

「やっぱり浩輔の腕は確かだろ。浩輔様あってのテラエシエルだからなぁ」
「茶化すな、隆史」
「秋川さん」

はるかは、凛とした瞳を浩輔に向けた。

「私、苦しもうかなって思います。こんなに苦しいのは、私、秋川さんが好きだからです」

それに驚いたのは浩輔だけではない。るいは思わず「ちょっと、はるか」と声に出していた。しかしはるかは、しっかりとした口調で伝えた。

「私みたいながきんちょ、相手にされないってわかってます。でも、苦しくてもいい。私、秋川さんを好きな気持ちを誇りに思ってます。だから、好きでいさせてください」

るいは、妹の覚醒にも似た成長ぶりに、目を丸くした。浩輔といえば、言葉を懸命に選んでいるようで、しばらく黙っていたものの、隆史が「おい、浩輔」と声をかけると、「えっと」と頬を掻きながら言った。

「そう思ってもらえるのは、本当にありがたいです。俺なんかを好きでいてくれることが、はるかさんの力になるなら、これからも、それで」
「なんだそれ!? 浩輔、お前なあ」

隆史がツッコミを入れようとするが、はるかはにっこり笑った。

「はい、いつか私、パティシエになって自分の店を持つって夢があります。夢が叶うまで、それまで、どうか好きでいさせてください」


拳銃の不正持ち出しがなぜ咎められなかったのか。その理由を葉山はいまだ知らない。もちろん、香織の父親の職業についてもだ。

「お疲れ様です」

捜査資料はなぜ今どき、ペーパーベースなのだろう。紙の山に埋もれながらは葉山はため息をついた。香織が差し出したコーヒーを一口すする。

「あ、ブルマン」
「さっすが、違いのわかる葉山さん」

抱きついてこんばかりの香織の勢いに、すっかり押されている葉山である。けれどそれも悪くないかもしれないと、そんなことを考えていたりして。


冬に向かう街の片隅で、天体望遠鏡を覗く浩輔の目に、ネオンよりも力強く輝く、どこか遠くのランパトカナル。

時に寂しくても、いつか星になるその時まで、俺はこの街で生きていくよ。きみをいつも、胸の内に、まなうらに、こころのなかに感じることができるから、俺は、どんなに苦しくても、大丈夫なんだ。

「……ありがとう」

微笑み返すように、星がひとつ、ちかちかと瞬いた。

つちとそら fin.