逡巡する葉山の目の前に、かちゃんと音を立ててコーヒーカップが置かれる。葉山がハッと息をつくと、目の前でコーヒーが湯気を立てていた。
ホスピタリティのかけらもないな、と葉山は内心でつぶやいた。
コーヒーを一口すする。味は悪くないだけに、接客がもったいない。
「すみませんが、お話をうかがっていいですか」
葉山が警察手帳を掲げながら店主に声をかけると、カウンターの奥からため息が聞こえた。
最寄りのスーパーマーケットでは、閉店30分前になると一斉に惣菜の割引が始まる。今日は木曜日だから、揚げ出し豆腐がお目当てだ。
浩輔は4割引シールの貼られたそれを手に入れると、エコバッグを上機嫌で広げた。上機嫌といっても笑顔を浮かべているわけではなく、見た目は至って平静だ。
今日は夕陽がきれいだった。週間予報によれば、しばらく雨の心配はないようだ。しかし、この頃は天気が変わりやすいから、にわか雨くらいには降られるかもしれない。
賃貸マンションの最上階に住む浩輔は、一人暮らしをしている。これまでに結婚したことはないし、今現在は交際相手もいない。
晴れた夜空がよく見える。夕飯を済ませた浩輔はベランダに出ると、そこに置いている天体望遠鏡を覗きこんだ。
ペガスス、アンドロメダ、ペルセウス、カシオペアからなる、秋の大四辺形がよく見える。今この瞬間も、宇宙では星が生まれては死んでいく。そのことが浩輔を駆り立てているのだ。
心地よい夜風が浩輔の頬を撫でて去っていく。浩輔は誰にも見つからないように小さく笑った。
るいの意識が戻らないまま、一週間が経過した。あれからすっかり憔悴しきったはるかは、香織のもとで過ごしている。
「妹ができたみたいで嬉しい」
香織ははるかに気を遣わせまいと振る舞うのだが、その言葉は逆効果で、はるかの表情はずっと暗いままだった。
はるかが使わせてもらっている香織のマンションの一室には、いくつものトロフィーやメダル、賞状が飾られていた。
「半分くらいは父の。あとは私のだよ」
見れば、剣道に柔道、合気道に弓道など、さまざまな競技のものだ。香織はいずれもの有段者なのである。
「本当はメルカラか何かに出しちゃいたいんだけど、父に反対されててね。かと言って捨てるのは気が引けるし」
「香織さん、すごいですね」
「血筋ってやつだよ」
「香織さんも、刑事さんなんですか」
香織はニヤッと笑って、首を横に振った。
「私はただの事務員。しかもコネで就職したクチだから、なにもすごいなんてことないの」
「コネ?」
「私の父ね、警視総監ってのやってんだ」
「けいしそうかん……?」
漢字に変換されるのに、しばらく時間がかかっている様子のはるかを見て、香織は素直にかわいいなと思った。
「えっ、えーっ! よく知らないけど、とにかく偉い人!?」
「まあ、偉いかどうかは置いておいて」
飛び跳ねて驚きを表現するはるか。そんな彼女に、香織はぽんと手を打った。
「あ、このことは他言無用でお願いね。業務になにかと支障をきたすから」
「はい」
「特に葉山さんには、絶対に内緒にしてね」
「え、あ、はい」
キョトンとするはるかに、ウインクしながら香織は告げた。
「私、葉山さんのことが好きなの。好きすぎて、手にかけてほしいくらいに」