翌朝、隆史が不在のため、いつもより早く開店準備をしようと浩輔は早めのダイヤの電車に乗った。自宅から店舗までは電車で2駅と近いが、たった2駅違うだけで、賃貸相場がかなり安くなることに加えて、星空がとてもよく見えるという利点があった。
天気と身体のコンディションがよければ自転車で通勤することもあるが、今日は忙しくなりそうなので体力温存のために電車を選んだ。
いわゆる通勤ラッシュにぶつかって、浩輔は改めて(みんな、疲れているんだな)と内心でつぶやいた。7人掛けのシートに座った全員がスマートフォンとにらめっこ状態だ。
浩輔は、少しだけしんどくなって視線を車窓の外にやった。
テラエシエルに到着すると、店舗入口に立っている見知った姿があった。葉山である。浩輔はいぶかしげに、「なにか?」と声をかけた。すると葉山は「すみません、何度も」と首をかしげた。
「連絡先を存じ上げなくて、こちらに来るのが早いかと思いまして」
「……ご用件は」
すると葉山は、どこか浩輔を試すような視線を送った。
「古城るいさんの、意識が戻ったんです」
「えっ」
「そのことをお伝えしたくて」
「ご家族は――はるかさんは、そのことをご存じなんですか」
「もちろん。るいさんが意識を取り戻したとき、ちょうどお見舞いにいらしていましたから」
「そうですか……」
安堵した様子の浩輔に、葉山は言葉を続ける。
「不都合ではないですか?」
「はい?」
「古城るいは意識を取り戻しました」
「なによりです」
「彼女は、自分を襲った犯人について間違いなく話すことでしょう」
「何が言いたいんです」
葉山は、右手の指でピースサインを作って、それをハサミのように動かす仕草をした。
「考えれば、いやよく考えなくたって、あなたのアリバイを証言した喫茶『はなとゆき』の店主があなたをかばう可能性は大いにある」
「まだ俺のことを疑っているですか」
「ええ、まあ」
「意識が戻ったなら、るいさんに訊けばいいじゃないですか。今日忙しいんで、お引き取り願います」
浩輔がつっけんどんに追い返そうとすると、葉山は口元に不気味な笑みを浮かべた。
「それがね、できないんですよ」
OPENの看板を出すために店舗の鍵を開ける浩輔にまとわりつくように、葉山は続けた。
「古城るいは、記憶を失くしています」
さすがに、浩輔の作業の手が止まった。
「なんだって……?」
「医師の見立てでは、いつ何の拍子に記憶を取り戻してもおかしくないが、このまま記憶を失ったままの可能性のほうが大きいそうです」
「そんなことって」
「あるんですよ、現実に」
葉山は一転して真剣な表情で、浩輔にこう迫った。
「取引しませんか」
「取引?」
「古城はるかについて、ご教授願いたい。その代わり、私があなたを追うのをやめる」
「なぜです」
その問いかけに、葉山の目元が、ほんの少しだけ細められた。
るいはベッドに身を横たえたまま、つぶらな瞳を何度も瞬きさせた。
「……ごめんなさい。心配かけて」
「お姉ちゃんが謝ることじゃない」
はるかは姉の頬を、温めたガーゼで拭った。きょとんとする姉に、はるかは全身から気力が抜けてしまったような感覚に襲われる。頬にあてられたガーゼは、るいにとって、とても心地よかった。
「あなたは、優しいんですね」
「違う。お姉ちゃんが好きなだけ」
はるかは、るいの求めに応じて何度もガーゼで頬を拭う。るいは半分夢の中にいるような表情で、はるかのすすり泣きを聞いていた。
葉山に取引を持ち掛けられた浩輔は、そのときふと、白峰から伝えられた言葉を思い出した。
――あなた近いうちに大切な選択をしなきゃならないかもしれない。もし迷ったら、心のままに決めるといいわよ。
「……そのお話、お断りします」
葉山の提案を突っぱねると、浩輔は淡々と開店準備を再開した。葉山は「ふーん」とつぶやいて、こう言い捨てて去っていった。
「後悔しないといいですね」
浩輔は、ふっーっと長いため息をついた。