端的にいえば、ジェラシーである。確かに若さでは負けるが、自分だって毎日メイクを頑張っているし、最新のファッションだってしっかりチェックしている。なのに、想い人はさっぱり振り向いてくれない。それどころか、いかにあの子を手にかけるかに腐心しているご様子だ。
「くやしいっ」
香織のこぶしがくまの形をしたクッションのみぞおちに入る。となりの部屋では、はるかがすでに就寝していた。
「どうしたらっ」
みぞおちを直撃され続けて、くまのクッションがどんどんぼろになっていく。
「どうしたらいいのーっ!」
とどめを刺されたくまが、うつろに香織宅の天井を見上げている。
「……こうなったら……」
香織は、そこまで声に出すと、唇をくっと噛みしめた。
「今日は天気がいいね」
るいが意識を取り戻して以来、はるかは専門学校が終わると必ず病院に顔を出した。気を張っていろいろとるいとの会話を試みるが、るいは戸惑ったような表情を浮かべるばかりだった。るいの大好きだったアイドルの写真をスマートフォンで見せても、「こちらは、どういう知り合いですか?」との反応である。
病院の中庭にしつらえられたベンチに並んで座る。はるかは、今まで自分がいかに姉に守られていたかを痛感していた。
夏の名残のヒグラシがまだ鳴いている。るいは目を閉じて、その儚げな鳴き声に耳を澄ませていた。
「ちょっと、お茶買ってくるね」
「ありがとうございます」
もうこれ以上、姉の前で泣いちゃだめだ。はるかはこぶしをぎゅっと握った。
特権というのは行使するためにある、と香織は心得ている。
「こんにちは」
濫用しない者にこそ、与えられるのが特権だ。自分のしていることがその理念に反していることは、香織もじゅうぶんに自覚している。だが、恋する乙女の着火したハートのなせる業を、いったいどのような罪状で取り締まれるというのだろう。
昼間なお薄暗い、地階の喫茶店「はなとゆき」。その店主である白峰果子は、来客に気づくと「いらっしゃい」と声をかけた。
「ご無沙汰してます、果子さん」
「ブレンドでいい?」
「シングルオリジンで」
「うちはブルーマウンテンしかないよ」
「お願いします」
都下の商店街の喫茶店で一杯1,320円(税込)のコーヒーを頼む。それは、客が白峰に『依頼』をする時の合図でもあった。
白峰はゆっくりとハンドドリップしながら、湯気越しに香織の表情を見た。
「元気そうね」
「はい、おかげさまで」
「で、これ以上前置きはいらないわ。ご依頼はなに?」
差し出されたコーヒーをひと口すすって、香織はかばんからクリアファイルを一枚取り出した。それから一度だけ深呼吸をして、白峰をまっすぐに見た。
「守りたい人を憎まなきゃならないとき、人はどうあるべきと思いますか」「興味深い質問ね」
白峰は、香織が葛藤のなかにいると直感した。だから、こう即答した。
「苦しむべきよ」
「ですよね」
「それは?」
香織の手元のクリアファイルを見やって、白峰は問うた。香織はにっこり笑う。
「越権行為というか、下手打つと懲罰対象というか、まあ、そんなところです」
「相変わらずねえ、香織ちゃん」
「果子さんが変わりすぎたんですよ」
「違いないわ」
香織が白峰に見せたのは、葉山が使用していた捜査資料のコピー、つまり血まみれになった遊具の写真だった。喫茶店の店主のものとは思えない鋭い眼光で、白峰はそれを見る。その様子を、香織は固唾を飲んで見守った。
しばしの沈黙ののち、白峰はつぶやくように言った。
「……ランパトカナル」
「えっ、なんて?」
「Lampatcanal。どの辞書にも載っていない言葉」
「どういう意味ですか?」
「意味はないの。あえて言うのなら、いのちの言葉。きっと誰かを救うと思うから、あなた覚えておきなさい」
葉山はるいの入院している病院の最寄り駅で降車した。季節が一歩ずつだが確実に冬に向かっている。夏にはあんなに焦がれた風が冷たさをはらんで、葉山の頬を撫でていく。夕日に照らされた蝉の死骸がいくつも舗道に転がっていた。
病室に続く廊下のソファで、ひとりうつむいているはるかの姿を確認すると、葉山は笑顔を取り繕った。
「やあ」
「あ、葉山さん。こんにちは」
「若宮さんは?」
「南アーケードに急用だそうです」
「そっか。じゃあお姉さんは?」
「眠っています」
「そう」
葉山はホットの缶コーヒーをはるかに渡した。はるかが礼を述べて一口それを飲むのを見て、葉山も自分用に買った缶コーヒーを口にした。それから、なんてことのない世間話をしていた葉山とはるかだったが、ふと葉山がこんなことを言った。
「……ちょっと、気分転換に行かない?」
葉山の瞳の奥に宿るほの暗い光に、はるかはまったく気づいていなかった。