葉山は浩輔の手をするりとかわした。警視庁捜査一課の刑事ともなれば、素人に首元をつかまれたところで造作もないことである。
浩輔に掴まれて乱れた襟元を直そうとして、葉山は「ああ、汚れちゃうか」と手を止めた。
浩輔が睨みつけてくるが、葉山は一向に動じない。それどころか、この場の空気にまるで似つかわしくない言葉を吐いた。
「嫌なことがあるとさ、あんたもしなかった? 道端の蟻をわざと踏みつぶしたりとか」
「しない」
「おー、徳を積んでますなぁ」
茶化してくる葉山。対する浩輔は、ひとつの異変に気がついた。暗闇でよく見えていなかったが、葉山の手指についている血は、『誰か』ものであるのは間違いない。しかし、その『誰か』の正体に気づいて、浩輔は愕然とした。
「お前、何を考えているんだ」
咎めるような言葉の中にも、こちらを思いやる感情が混ざっていることを察した葉山は、真顔になってこう言った。
「苦しいんだよ」
浩輔の目の前に、葉山は使用したナイフを突き出した。その刃先も、やはり血に染まっている。
「どうしたらいいか、わからない。あの子を見ると、自分が変になりそうになる……。どうしようもないんだ。ただただ、苦しいんだ」
「はるかさんのことか」
「このままじゃ俺はいずれ、あの子を手にかけるだろう」
「本気か」
「冗談でこんなことは言えない」
「だからって、自分を傷つけることはないだろう」
浩輔に見抜かれて、葉山は力なく笑った。葉山の手指に付着した血は、そもそも葉山のものだったのだ。左手首に、まだ生々しい傷がついている。
「死ぬつもりだったのか」
「そこまでの勇気もなかった」
「そういうのは勇気とは言わないと思う」
浩輔はリュックから清潔なタオルを取り出すと、葉山の左腕を引き寄せて、てきぱきとした動作で巻き付け止血させた。一連の流れるような手当てに、葉山は感心した様子を見せた。
「……あんた、いいやつだな」
「『いいやつ』は便利な言葉だ。汎用性が高いから」
すると葉山はかすれ声をあげて笑った。
「訂正しよう。変なやつだ。もしかして友達少ないだろう」
「否定はしない」
「よかった。俺もだ」
はるかはるいの傍を離れることを選択しなかった。せっかく誘ってくれた葉山には申し訳ないが、今は少しでも長く一緒にいたかった。
眠っているるいの横で、「公衆衛生学」のテキストを読んでいた。もともと読書は好きなほうなので、そんなに苦にはなっていない。パティシエになるには調理実習のほかにも「衛生法規」「栄養学」「食品学」などを学ぶ必要があった。
姉が襲われて以降、特に調理実習で上の空になることが多く、よく講師に注意をされていた。最初はそのたびに自分を情けないと感じていたはるかだったが、るいが記憶喪失とわかってからは、そんな自分を変えたいと強く思うようになった。
お姉ちゃんは、私が守る。
「すみません、お時間大丈夫ですか」
目を覚ましたるいにそう言われて、はるかは腕時計を見た。面会終了時間が近づいていた。
「ありがとう。そろそろ行くね」
「はい。いつもありがとうございます」
「私が来たくて来ているから、気にしないで」
はるかは病院を出ると、ほっと息をついた。冷たさを増した夜風に、ふと人肌が恋しくなる。無性に、浩輔の顔を見たかった。髪に触れてほしかった。声を、聴きたかった。
帰宅の電車の中で、思い切ってはるかは浩輔にメッセージを送った。
『今度、髪を切ってもらえませんか。思い切りショートにしたいです』
妙なことになった。先刻まで争っていた二人が、マンションの一室でテーブルを挟んで向かい合っている。
「どうしても医者に行かないのなら、うちに来い。ちゃんと手当てしてやる」という浩輔の言葉に、葉山が首肯したのだった。
葉山が自らつけた左手首の傷はそれほど深くなかったが、動かすと痛みを伴った。
「しみるかもしれないが、大人しくしててくれ」
浩輔はやはり淀みない仕草で葉山の傷口を消毒し、帰りしなに薬局で購入した包帯を丁寧に巻きつけた。
「正義の味方ってのも、楽じゃないよ」
ふと、葉山がこぼした。
「だろうな」
「刑事になった動機が不純だから、そもそも他人様を捕まえられるような人間じゃないんだ、俺は」
「不純?」
葉山は、少しの沈黙ののち、白状した。
「見たかったんだ、肉眼で」
「何を」
「血とか、惨殺死体とか、そういうのを、より合法的な手段と建前で」
「そう」
浩輔は淡々と手当の作業を進める。葉山は少し驚いた様子を見せた。
「引かないのか? こんなこと、とても恥ずかしくて——」
「人は人。それ以上でも以下でもない」
葉山は長く息を吐いた。
「再訂正する。やっぱあんた、いいやつだ」
真夜中の寝静まった病棟の廊下を、るいはふらふらと歩いていた。ナースステーションにいた夜勤の看護師がそれに気づくと、「古城さん」と声をかけた。しかしるいは反応しない。
「古城さん、どうしましたか」
るいは屋上に続く階段の前で歩を止めた。当然ながらこの時間帯は施錠されている。鍵のかかったドアレバーを、るいは何度も押したり引いたりした。
「古城さん、だめですよ」
「……星を」
駆け付けた看護師に、るいはこう告げた。
「星を、見せてください」