篠突く雨の夜に飛び込んできた通報は、遅くまで捜査書類と格闘していた葉山秋広の眠気を吹き飛ばすのに十分すぎた。昼間は子どもたちの遊び場となっている「南なかよし公園」のドーム型遊具の中から、重篤な怪我を負った女性が発見されたという。すぐに現場に駆けつけるようにとの出動命令を受け、秋広はマグカップに残っていたコーヒーを飲み干した。
「いってらっしゃい」
見送ったのは、秋広の残業につきあっていた事務員の若宮香織だ。香織は見逃さなかった。事件現場へと向かう秋広の目元が、ほんの少し細められていたのを。
……この胸の高鳴りが、たとえば恋の類だったとしたなら、誰にも責められることはないだろう。もちろん自己嫌悪に陥ることもなかった。しかし、現実というのはなぜこうも容赦ないのだろうか。
現場に駆け付けて「KEEP OUT」と書かれたバリケードテープをくぐり、視界に血痕が入ってくると、秋広はどうにか険しい表情を取り繕った。だがその内心は、歓喜に満ち溢れていた。
古城はるかは、パティシエの専門学校に通うまだ十九歳の女性だ。事件の起きる前日、重傷を負った姉が行きつけだった美容室「テラエシエル」に一緒に訪れていた。姉は、はるかにとって唯一の肉親である。
はるかの姉、古城るいに施術をしたのは秋川浩輔という四十路手前の美容師だった。寡黙な性格だが、客からの信頼は厚く、美容師としての腕は確かだった。
「るいちゃん、いいね。イメチェン成功だね」
そう声をかけたのは、「テラエシエル」のオーナーの西条隆史だ。浩輔の学生時代からの友人で、若くして開業した苦労人である。テラエシエルは客席が2席だけの、小さな美容室で、都心から少し離れた地域の商店街に店舗を構えている。
「ありがとう、西条さん。はるかもどう? 前髪だけでも切ってもらったら」
るいに言われて、はるかはひどく慌てた。
「いいよ。今日は手持ちもないし」
「私が出すよ。遠慮しないで」
「いいってば」
浩輔がちらっとはるかを見たので、はるかは思わず赤面した。るいがそれ以上はるかを追い詰めることはせず、西条と世間話を始めたので、はるかはほっと胸をなでおろした。
軽めのショートボブに仕上がったるいは満足げに鏡を見て、「完璧!」と笑った。
病院に駆けつけたはるかは顔面蒼白で、「姉に会わせてください」と取り乱していた。
そんなはるかに対して、応対を行ったのが葉山だった。たった一人の姉をこんな形で傷つけられたはるかに対して、葉山は同情の念を禁じえなかった。
「古城さん。お気持ちはお察ししますが、聴取におつきあい願えますか」
「……姉は、今どこにいるんですか」
「集中治療室です」
「そんな!」
はるかはそう叫ぶと、そのまま気を失ってしまった。葉山は小さなはるかの体をそっと抱きかかえると、廊下に設えられてあるベンチに横たえさせた。
「うーん……」
葉山は首を傾げた。目の前で倒れている女性は、被害者の妹だ。面影がそっくりである。公園で発見された古城るいは、首元を鋭利な刃物で深く切られていた。血の海という表現があるが、ドーム型の遊具のなかはまさにその状態だった。
わかっている。本来的には葉山は刑事なのだから、犯人を捕まえる立場なのだ。しかしながら、同時に湧き上がる感情がある。それは決して許される願望ではない。いや、叶ってはならない。決して叶わない欲望の代償として、葉山は刑事になったといっても過言ではないのだ。
はるかにかける毛布を持ってきた事務員の香織が、はるかをじっと見つめる葉山に声をかけた。
「お疲れさまです、葉山刑事」
「ああ、すまない」
「ちょっといいですか」
「なに?」
香織ははるかにそっと毛布をかけると、にっこりと葉山に向かってこう言い放った。
「どうせ手にかけるなら、私にしてくださいね」