第一話 魔女、現れる

プロローグ

ごめんね。僕は、たった一言を伝えたかっただけだった。

世界で、ただ一人のきみに、心からの「おめでとう」を。

ごめんね。そんなちっぽけな願いすら、僕には叶えられなかった。

許してくれとは言わない。それでも、本当に……ごめんなさい。

――僕にはもう、何もないみたいなんだ。


第一話 魔女、現れる

受話器の向こうから賑やかな笑い声が聞こえてくる。どうやら電話の相手は居酒屋にいるようだ。

「昌弘、ちょっといいか」
「今から飲み会だから、悪いけど手短に頼むよ」
「来月の第二土曜日、戻ってくるだろう?」
「土曜日?」

電話の向こうの声の主は、「あっ、やべっ」と声をあげた。

「悪い。バイト入ってる」
「予定は変えられないのか?」
「シフトだから無理」
「……そうか。わかった」
「じゃ、またな。もう乾杯だからごめん」

こちらが「それじゃまた」と言う前に、電話は切られてしまった。神谷広樹はため息をつくと、「だってさ、母さん」と目の前の写真に向かって呟いた。


「おはようございます!」

目の覚めるような明るい挨拶が店内に響く。神谷は笑顔で「おはよう」とそれに応じる。やってきたのは、この喫茶「コトノハ」を手伝っている吉田美咲だ。神谷はサイフォンを一つひとつ磨くのが日課の始まりで、三つめを磨く頃に美咲はいつもやってくる。

「雨、まだ降ってない?」
「はい、かろうじてもっています。このあとも折りたたみ傘でじゅうぶんかな」
「そう。よかった」

美咲は慣れたしぐさでエプロンを着て、さっそくガトーショコラの仕込みを開始した。そこへすかさずやってくるのが、飼い猫の三毛猫マグだ。

「マグ、おはよう」

マグはすまし顔でカウンターの近くに設えられたクッションに身を沈める。いつもの朝、いつものあいさつ、いつもの風景。日々が織物なら、その一つ一つの織り目を丁寧に紡ぐような時間が、ここでは流れている。柱時計が澄んだ鐘の音を鳴らし十時を報せた。

「マスター、今度の土曜は臨時休業でしたよね」

美咲がガトーショコラの生地を混ぜながら問うと、神谷は眉毛を「ハ」の字にした。

「それが、その必要がなくなるかもしれない」
「え、なんでですか?」
「昌弘が帰ってこないんだ」
「ええっ」

美咲は仰々しく驚いたが、すぐに合点がいった様子で「ははーん」と手を打った。

「新しい彼女でもできたんだな。由衣おばさんよりカノジョか。うーん」
「いや、バイトらしくてね。でも普通、母親の法要だって言ったら休ませてもらえないものかな」

美咲は「うーん」と人さし指を立てた。

「イマドキのバイトは相当ブラックだっていいますからね。単位のかかった授業でさえ、休ませてもらえないこともあるみたいですよ」
「そうなの?」
「最近じゃどこも人手不足ですから。ここはまだいいほうですよ、かわいい助っ人が二人もいるんだから」
「あ、美咲ちゃん、今『かわいい』に自分を含めたね」
「もちろんです」

すると、タイミングよくマグがひと鳴きしたので、思わず美咲は笑った。

「あーごめんマグ。きみもちゃんと『かわいい』よ」

当然、とばかりにすまし顔でマグは首をかしげる。

「そういうところがね」

美咲の手で混ぜられた生地が、早く焼いてくれと言わんばかりに滑らかに光っている。今日もオーブンのご機嫌はいいようだ。

「美味しくなってね」

美咲の言葉に呼応するように、やがて甘くて優しい香りが店内に立ちこめた。


「おめでとう」

向かいのベッドから、起き上がりもせずに声だけをかけられた。ちっとも心のこもっていない言葉に、沢村透はどう返答していいかわからず、カーテン越しにこうべを垂れるだけだった。

「早くしなさい。駐車場でワーカーさんが待っているんだから」

部屋の外から母親の苛立った声がする。透は天井を見上げた。何年も見上げてきた、無機質な白が、今日ばかりはどこか懐かしく感じる。これを見つめることはもうないのだろう、否、あってはならない。

「ありがとうございます」

辛うじて絞り出したような声で透は返答した。それに対して、カーテンの奥から、「またね」と聞こえたのを、透は聞こえないふりをした。

病院を一歩出ると、もう透には不安しかなかった。ずっとここから出たいと願っていたのに、それが叶った途端に怖くなる。自分という人間は身勝手だと痛感した。冬を受け入れつつある高尾山のひんやりした空気が、透の肩をかすめる。身を切るような寒さになるのに、さほど時間はかからないのだろう。季節はいつだってそうやって自分を置き去りにしてきた。秋がくたばれば冬になり、冬を背後から刺し殺すのが春で、春を食らうのが夏、秋は夏を侵食していく。その繰り返し。透を果てのない虚しさが襲う。

「沢村さん」

声をかけられて、透はハッとした。白いミニバンの車窓から、ソーシャルワーカーがこちらを見ている。

「そろそろ行きましょう。名残惜しいかもしれませんが」

名残惜しい、という言葉がこの場に適切か、透にはわからなかった。ただ、大きな不安を引きずった自分をこれから受け入れるという場所に1ミリの期待もしていないことだけは自覚していた。すぐそばにある未来、たとえば明日に希望を見いだせないことがこんなに辛い、を通り越して空虚な気持ちになるものだとは。後部座席で透はひたすらうなだれた。

「疲れちゃいました? 30分もかかりませんから。少し寝ていったらどうですか」
「……はい」

車で30分もかからない場所を、自分はもう何年も知らない。そのことが、透のこころに穿たれた空洞をますます深くさせた。


「あーっ、やってられるか!」

コトノハのカウンターで昼間からそうぼやいているのは、常連客の三山香月だ。

「マスター、ナポリタンおかわり」
「香月ちゃん、さっきのチーズタルトで打ち止めじゃないの?」
「今日は特別。もう食べなきゃやってらんない」
「香月さん、その『特別』、何回目ですか?」

あきれ気味の美咲の言葉は火に油だ。

「美咲ちゃんにはわからないよ。記念日に『太った?』なんて言われたアラサー女子の気持ちなんて」
「『記念日』?」
「付きあって三ヶ月目記念」
「めんどくさ! 香月さんめんどくさ!」
「うるさい〜、おかわり〜」

香月は近所の介護老人保健施設で介護福祉士として働いている。職場の先輩と三ヶ月前に交際を始めたが、早くも破局の予感のようだ。

神谷は手早く小盛りのナポリタンを作り、香月の目の前に置いた。

「食べたら深呼吸しなよ」
「感謝っ」

香月が泣きそうな顔でフォークを握り直すと、コトノハのドアに取りつけられたベルがカランコロンと軽やかな音を立てて新しいお客がやってきた。

「いらっしゃいませ」

美咲が笑顔で迎える。やってきたのは、グレーのロングドレスに大きなスーツケースを携えた、年の頃なら五十路過ぎと思しきすらりとした女性だった。

「ブレンドを」
「はい、少々お待ちください」

女性は店内を見渡してから一番奥のテーブルについて、すぐに読書を始めた。

少ししてから美咲がコーヒーを運んでくると、「ちょっといい?」と話しかけてきたので、美咲は隣のテーブルを片付けながら応じた。

「なんでしょう?」
「ここ、空いてるわよね」
「はい。今は空席です」
「そうじゃくて」
「はい?」

女性は自分が読んでいた本を傍に置き、スーツケースと一緒に持っていたショルダーバッグから名刺入れを取り出すと、トランプのカードのように美咲に差し出した。どうやら名刺のようである。

それを受け取った美咲は、そこに書かれていた文言に瞠目した。

「『魔女』……?」

第二話 魔女の提案 に続く