第一話 ピザトースト

プロローグ

激しい雨の後にこそ、空には虹がかかる。そして、見上げないと、その虹は見ることができない。

夜明け前が最も暗いと言われるように、光の射す一歩手前がきっと、最も苦しいときだったりする。それを抜けたからこそ、世界は彼らに微笑む。二人はそのことをよく知っている。だから、今日も微笑みあうことができるのだ。

第一話 ピザトースト

真一はこの日も早朝覚醒のため午前三時に目を覚ました。よくあることだ。どんなに作用の強い睡眠薬も、彼に安らぎを与えることはできない。そもそも、薬は対処療法にすぎず、彼の抱える深すぎる傷を癒せる特効薬など、きっとどこにもないのだ。

早起きをしてしまったので、仕方なくベッドから起き上がって煙草に火をつける。煙を吐けば、少しは憂いも吐き出せる、そんなまやかしを信じたいからだ。

微かな秒針の音だけが、彼の住むアパートの一室に響いている。朝のニュースもまだ始まっていない。

今日は月曜日だ。十一月に入ってもう一週間。ついこの間まで暑いと思っていたが、秋はあっという間に駆け抜けていく。そろそろ年末年始のことも考えなければ。

真一はため息をつくと、二本目の煙草を取り出した。


「うわー、あぁもうっ」

桃香は自分の住むアパートの隅っこに設えたベッドの上で悶絶していた。もう何度味わったか知らない、失恋の強烈に苦い味。こればかりは慣れるものではない。ぬいぐるみを壁に投げつけ、両足を宙に投げ出してジタバタさせる。それでも治まらない激情に、桃香はひたすら身を委ねた。

程なくして、まるで察したように桃香のスマホが鳴った。ラインだ。差出人は、高校時代からの親友の絵美子である。

「お疲れさん。よく自分でコクったよ」

(お疲れさん、じゃないっつーの!)

立て続けにラインは送られてくる。

「縁がなかったと思って諦めな」
「惚れっぽいのもいいけど、少し恋愛から距離置けば?」
「結婚が全てじゃないよ。結婚=幸せ、とは限らんだろ」

絵美子に悪気はない。むしろ、本当に辛い時にも支えてくれた子だ。しかし、絵美子のラインは今の桃香には全部、神経を逆なでするものでしかなかった。

「うう〜、だあぁっ!」

当然、既読スルー。

(絵美子、ごめん。でも、今はムリ。)

今度こそはと思った。思ったから、想いをぶつけた。で、あっさりと「友達でいたいから」と却下された。あまりにもあっさりとだ。まるで麺のないラーメンじゃないか……。

泣き疲れて、そのまま寝てしまったらしい。目が覚めた時には時計は午後一時を指していた。外出着のまま寝てしまったので、背中が痛い。

「んー……」

おなかも空いたが、買い物をさぼっていたので食べるものが見当たらない。

あれ、そういえば、今日は何曜日だっけ?

「……え?」

慌ててスマホを見た。画面には、十一月七日、月曜日と表示されている。

「やばっ!」

午後二時から、精神科の受診予約を入れていたのだ。自宅からは小一時間かかってしまう。今から身支度して、ダッシュしても間に合うかわからない。

(やっちゃった……身から出た錆だけど! あいつが私を振るからいけないんだ!)

……などと責任転嫁しても時間が戻るわけではない。桃香は顔を洗い直し、化粧もそこそこに、着替えも適当に済ませ、空腹のまま病院へ向かった。


やっぱり、間に合わなかった。予約時間を過ぎてしまうと順番を飛ばされて、長時間待たされる羽目になる。そんなことはよくあることで、だから病院の敷地内には患者の就労支援も兼ねたカフェが建てられている。桃香は予約票を受け取ると、げっそりした表情でそこへ向かった。

「アイスコーヒー、ください。あとピザトースト」

席に着くや否や、桃香は注文をした。もう、おなかが空きすぎて倒れそうだ。カフェのテーブルに突っ伏していると、コーヒーやパスタのいい匂いが鼻をかすめる。

隣からは、かぐわしいアールグレイの香りに混じって煙のにおいがした。自分と同じ通院患者と思しき青年が、煙草をふかしながら本を読んでいる。せっかくのアールグレイの香りも、煙草を吸っては台無しだろうに。(分煙って、意味ないよね。)

店内には他にも、親子連れらしき年の離れた二人の女性、初老の女性、高齢の男性などがいた。みな静かに、めいめいの時を過ごしているようだ。

早速、アイスコーヒーが運ばれてくる。空腹にコーヒーはこたえるが、今は一刻も早く喉を潤したかった。

アイスコーヒーを一口飲むと、桃香は絵美子に返信してなかったことを思い出した。

「ありがとー。今日のカウンセリングは充実しそうだわ~」

なーにが「充実しそうだわ~」だろう。桃香は自分でも虚しくなる。

「あの」

唐突に声をかけられて、桃香はハッとした。隣の席の青年だ。

「はい?」
「椅子から落ちてますよ、マフラー」

青年はニコリともせずに桃香にマフラーを手渡した。

「あ、ありがとうございます。すみません」
「いえ……」

青年はすぐに本に視線を戻した。よく見れば、「山羊の歌」、中原中也の詩集だ。教科書でなら見たことがある。

(へぇ、今どきいるんだ、そういうの読む人。)

「あの」

またしても青年がこちらに声をかけてきた。青年はやや戸惑った様子である。

「何か、御用でしょうか」
「え?」
「僕の顏に、何かついてますか」

しまった。気づかないうちに相手を見つめてしまっていたらしい。桃香は慌てて、「いえ、ごめんなさい」と頭を下げた。そうすると今度は青年が慌ててしまう。

「すみません。別に謝って欲しかったわけじゃないんですが……」

そこへ、タイミングよくピザトーストが到着したものだから、桃香も青年も、ほっと胸をなでおろした。

「お待たせいたしました」

いざ、ピザトーストを目の前にすると自分が空腹だったことを思い出し、急に桃香のお腹が鳴った。

「ごめんなさい……」

桃香の言葉に、青年はクスッと笑って、「どうぞ、召し上がってください」と少しだけ茶化すようにいった。桃香は気恥ずかしさを誤魔化すために、ピザトーストを意識して上品に食べてみた。かぶりつくんじゃなくて、一口大にちぎってから口へ運ぶ。意外に時間がかかるが、致し方あるまい。

桃香がピザトーストに苦戦しているうちに、青年が腕時計を見てから立ち上がった。

「じゃあ、僕は今から受診なので、失礼します」

わざわざ、挨拶してくれた。なんとまぁ、丁寧な人なんだろう。こちらといえば顔をジロジロ見た挙句にピザトースト食べてんのに。なんだか申し訳ない気がする。

「ありがとうございました」

自然と出た言葉だった。だから、青年も微笑みを返し、一礼して去っていった。

この日、桃香が遅刻しなければ出逢うことのなかった二人の時計の針が、ゆっくりと動き始めた。

第二話 キーホルダー に続く