第二話 魔女の提案

美咲がじっとその名刺に釘付けになっていると、その女性は続けた。

「ここはガトーショコラが人気らしいわね」
「えっ」
「グルメサイトに載ってたのよ。でもまだお腹がそんなに空いていないから今度にしようとは思うんだけど」
「はあ」
「このブレンドもなかなかいいわ。向こうに引けを取ってない」
「『向こう』?」
「ええ。ウィーンのメランジュを思い出す。ミルクをフォームして上にのせたら本格的だと思うわ」

反射的に美咲はエプロンのポケットからメモ帳を取り出し、その女性の発した単語をメモに取った。

「メランジュ……ウィーン……」

その様子を見た女性はニコリというよりはニヤリと笑い、神谷に声をかけた。

「マスター、こちらの子はずいぶんと真面目なのね」
「『真面目』が褒め言葉じゃなくなって久しいけれど、間違いなく美咲ちゃんの長所ですよ」

神谷にそういわれて、美咲は「えへへ」とこうべを垂れた。

「それで、さっそく相談があるんだけれどいいかしら?」

その女性は悠然と席で脚を組んだまま神谷を見る。

「なんでしょう。どうぞ」

神谷は香月のために食後のマンデリンを淹れながら促した。

「こちらの隅のテーブルを、お借りできないかしら」
「どういうことですか」
「手持ちがなくて」
「はい?」
「本場のハーブティーや魔法グッズをタダで卸すから、ここの空間をお借りできないかしら」

神谷の眉が「ハ」の字になる。どう答えていいかわからない。美咲もなにをどうリアクションしたらいいかわからずに困り顔をトレーで隠した。

この奇妙な緊張を破ったのは、軽やかなドアベルの音と「遅くなってすみませんっ」というまだあどけなさの残る声だった。

「あ、朋子ちゃん!」

美咲が救世主を見つけたとばかりに声をあげる。朋子と呼ばれたその少女は、いつもと違って珍しく制服姿だった。

「ごめんなさい。お母さんと学校に呼び出されちゃって。美咲ちゃんに LINEすればよかったんですけど、ずっとお母さんがそばにいたから」
「いいのいいの、気にしないで。ね、マスター」

神谷もまた朋子の登場に安堵して、にこにこと手を振った。

「よかった。風邪でも引いたのかと心配していたよ。よく来てくれたね」
「はい」

『よく来てくれたね』。その一言で朋子が途端に目にたっぷりの涙を浮かべたので、美咲はすぐにハンカチを差し出した。

「頑張ったんだね」
「……わかんない」
「きっと頑張ったんだよ。だからここではもう頑張らなくていいよ」
「……うん」

朋子は思わず美咲に抱きついた。だが、すぐに自分に視線が注がれていることに気がついて、涙をぬぐい、目をぱちくりとさせた。「誰?」とアイコンタクトをする朋子に、しかし美咲も「わかんない」と返すばかりだ。

カウンターでは「食べすぎたー」とくたくたになっている香月が無為にスマートフォンをいじっている。

魔女を自称する女性は、テーブルのすぐ横の壁に貼られた一枚のポスターを指さした。街のPRのために地元の大学生がデザインしたものだ。アニメみたいに大きくてキラキラした目の女の子が、この街の名産である織物でできた着物に身を包んで、笑顔でピースしているイラストが描かれている。

「私はこの街にどうしても店を出したい。この喫茶店には新しくハーブティーなどのメニューが無償で増える。win-winというやつだと思うんだけれど」

「いきなりそんなことを言われてもなあ」

神谷が至極もっともなことをいうと、美咲も頷いた。

「うん、『魔女』といわれてもどう返事したらいいかわからないですよ」
「魔女?」

美咲の発した単語に朋子が強烈に反応した。

「魔女って、ほうきに乗って空を飛ぶ、あの?」

すると女性は「あはは」とほがらかに笑った。

「先入観って怖いわね。それは『よくある誤解』ってやつよ。人の幸せを願い、できることをそっと差し出す方法を知っている人のこと。魔女や魔法使いって、本来そういう存在なの」


眺めるものが白い天井から前の入居者がつけたであろうタバコのヤニで黄ばんだ色の壁に変わっただけでは、一体なんのために退院をしたかわからなくなりそうだ。母親は自分が実家に帰ってくることを拒んだ。それでも、仕方ないことと受け止めるほかなかった。

自分には行き場所がない、だからずっとあの病院にいればよかったと思う。けれど同時に、このままではいけないという危機感をずっと抱いてきた。それでもなお、「こんな自分ではだめなのだ」という感情が思考を支配する。

透は畳の上でしばらく寝転がっていたが、百円均一で買った置き時計が4時を示したので、のろのろと起き上がると、「日課」と書かれたクリアファイルの中から今日の日付の紙を取り出し、「散歩」にチェックを入れた。ソーシャルワーカーから提案されたことで、一日にすることをリストアップしてその都度チェックを入れたらどうか、とのことだった。

すっかり履き潰されたスニーカーに足を通し、軋みを上げる薄いドアを開く。そろそろ厚手のコートが欲しい季節だ。

透はとくにコースを決めることなく歩くが、後半に必ず公園に寄るようにしている。ベンチは必ずといっていいほど空いており、晴れていればそこに座って空を眺めるのだ。そうすれば無心になれて、自分もこの世界の一部なのだと感じることができる。

入院前に使っていた携帯電話はもう使えないので、母親の支援でスマートフォンを購入したが、特に繋がる相手もいないのでデジタルカメラの代わりとして使っている。

透はその日も空に向けてシャッターボタンを押そうとした。暮れなずむ穏やかな赤と静かな藍色とのグラデーションを、どうにか画面に収めたいと思った。そこへひとすじの雲が流れてきて、えもいわれぬ幻想的な光景が広がったものだから、透は指先で懸命にボタンを押そうとした。

だが、まさにこの瞬間、というときに画面が突然真っ暗になった。透は思わず「えっ」と呟いてしまう。自分が操作を誤ったのだろうか、などと慌てているうちに雲は滔々と消えてゆき、撮りたかった姿はもうどこにもなかった。

「あー……」

肩を落とす透。それからしばらく、ベンチに腰かけたままぼんやりとブランコで遊ぶ親子連れを見ていた。虚しさというのは、もしかしたらもうずっと、自分の人生にこびりついて離れないものなのかもしれない。透は心の底からそう感じた。

今日はもう諦めよう。そう思ってベンチから立ち上がろうとして、はじめて透は違和感に気づいた。自分の隣に、なんと三毛猫が鎮座していたのである。透が訝しげにちらりと見ると、その猫――マグは首をちょこっと傾げて短くひと鳴きした。

第三話 小さな試食会 に続く