絵美子が怪訝そうに桃香を見る。身動きしないと思いきや、桃香は突然その場から速足で離れだした。
「ちょっと、桃香!」
桃香は跳ね上がる鼓動をどうにかしたくて、しかしどうしようもなくて、ひたすらあの場から逃れることを考えていたのだ。絵美子がすぐに追いついて、桃香を質した。
「桃香、池袋なんかで一人になったら大変でしょ」
「……ムリ」
「は?」
「バカみたい、私」
なおも駅に向かって歩き続ける桃香。絵美子は問いただした。
「どういうこと?」
「ああいうの、ムリなの」
「だから、何が」
「……」
桃香はずんずんと歩いて行ってしまう。絵美子はため息をついて後を追う。西武線の改札付近に着くと、ようやく立ち止まった。やっと絵美子に事情をしてくれるのかと思いきや、
「何なのぉー」
と泣き始めてしまった。絵美子は「そりゃこっちのセリフだ」とぼやいた。
「ああもう。そこのエクセルシオールでいい? ちょっと休んでこ」
「ねぇ、安田君」
「はい」
兵藤さんは不思議そうな表情で、真一に問いかけた。
「さっきの人たち、知り合い?」
「え?」
「あの女性二人連れの……」
真一には何の事だかわからない。
「あの、それよりも集計が合わなくて」
「あれ? いくら合わないの」
「四五〇円、少ないんです」
兵藤さんはむむ、と考えるような仕草をした。
「キーホルダー1本分か。まいったわねぇ」
いうほど、実は兵藤さんは困っていない。売上金額が合わなくても、別途に設けてある寄付金箱には数千円がすでに入っているからだ。
「ちょっと両替してくるから、安田君、店番よろしく」
「はい」
兵藤さんが去ってすぐに、真一のいるブースに高齢の女性がやってきた。ストラップを手に取ると、ゆったりとした口調で話しかけてくる。
「糸よりの色が綺麗だねぇ。組み合わせも、私の好きな色だわ」
「ありがとうございます」
「こちらはどんなお店なの?」
「それは……」
真一は一瞬だけ口ごもる。
「障害のある人たちの、手づくりの作品を展示しています」
「あら、そうなの。大変ね」
真一は応答に迷った。何が「大変」なのだろう。この女性に悪意はない。かといって理解もないようである。しかし、ここでこの女性を責めるのはお門違いだとわきまえた真一は、笑顔で接客を続けた。
「孫に買ってあげようかしら。これ、2つちょうだい」
「はい、ありがとうございます」
真一がストラップをラッピングしていると、テーブルに置いてあった彼の所属している団体のパンフレットを手に取ったその女性が、「あら」と声を出した。
「『ピアサポートセンター・ふるーる』、ね。この『ピア』ってどういう意味なの? 英語?」
「あ……」
真一は一瞬黙ったが、すぐに毅然と答えた。
「英語です。『ピア』は、仲間とか、対等とか、そういう意味です。障害をもつ仲間同士の支えあい、というニュアンスで使っています」
「そう。この歳になっても知らないことって、いっぱいあるのよ」
女性は真一をもう一度ちらっと見た。
「失礼だけど、じゃあ、あなたも……?」
何が「失礼」なのだろう。真一は伏し目がちに、女性に商品を手渡した。
「……こちら、どうぞ。ありがとうございました」
桃香はしばらく泣きじゃくっていた。絵美子はアイスティーを二つ注文して運んできて、桃香を促した。
「ま、飲みなよ」
「うん……」
桃香が一口飲んだのを見ると、
「で」
絵美子はずずいっと桃香に近寄った。
「何がどうしてどうなったの」
「ラジオ番組みたいなきき方しないで。あと顔近い」
「説明責任ってのがあるでしょう。ていうか、意味わかんない」
絵美子の主張はもっともだ。突然歩き出して「ムリ」だの「なんで」だの泣きじゃくられてはたまらない。
「だって……」
桃香は言いづらそうに、しかしはっきりと言った。
「心の準備が出来てなかったの」
「何の?」
「だから、まさかあんなところにいると思わなかったの」
絵美子は、まさか、と前置きしてからこういった。
「さっきの出店にいた人?」
桃香は首を縦に振った。絵美子はぽかんと口を開けている。
「世間は狭いねぇ……」
「うん……」
桃香はおもむろに握りしめていたキーホルダーをテーブルに置いた。
「こういうの、なんて言えばいいの? ショック? 恋?」
絵美子は瞠目した。
「バカ、万引きっていうんだよ、そういうのは!」
桃香の持ってきてしまったキーホルダーを手に取り絵美子が慌てる。
「ちゃんと返しに行こう」
「え、え」
たじろぐ桃香に絵美子は、ピシャリと言う。
「悪いけど私、福祉とかそういうのよく知らない。でも、だからってそれが桃香の万引きを看過する理由にはならない」
「うん……」
ちなみに絵美子は吉祥寺でショップの店員をしている。身だしなみが苦手な桃香に、よくセール品を買ってきてくれる(というか、洋服好きの絵美子は好きで買ってくるらしい)。高校時代からの、なんだかんだで良き友だ。
絵美子はキーホルダーを丁寧に桃香のカバンにしまうと、彼女を奮い立たせた。
「さ、行こ」
兵藤さんが戻ってくると、真一は「すみません。ケムリ切れです」とヘルプを求めた。
「いいわよ、行ってらっしゃい。喫煙所、ちょっと遠いからね」
一礼して、真一はブースを後にした。
祭にはフランクフルトや焼きそばの出店もあり、昼ごはんにちょうどいいものが揃っている。喫煙所は公園の隅に申し訳程度に設えられている。真一はゆっくりと歩いてそこへ向かった。
程なくして、「ふるーる」のブースに桃香と絵美子がやってきた。
「ほら、桃香」
絵美子がせっつく。兵藤さんは「あら、こんにちは」と声をかけてきた。
「また来てくれたんですか。嬉しいわー」
「いえ、あの……」
おずおずと、桃香はキーホルダーを差し出した。
「これ、あの、ごめんなさい」
「え?」
「なぜだか自分でもわからないんですが、夢中だったので……ごめんなさい」
兵藤さんはアハハ、と笑った。
「わざわざありがとう。うちの作品に夢中になってくれるなんて、光栄だわ」
絵美子は、ブースを覗き込んだ。
「今はお一人ですか」
「ええ。すぐにもう一人、戻ってくると思うけど」
「お詫びに、お手伝い、しましょうか」
そう言って桃香をチラッと見てニヤっと笑った。
「ちょっと、絵美子!?」
絵美子はお構いなしだ。
「私、物を売るコトには慣れてるんです」
兵藤さんは感激して、「あらー、こんな若い女の子が二人もいてくれたら、助かるわぁ」とすっかり乗り気である。桃香は困り顔で立ち尽くしていた。
『二人』の時を刻む時計があったとして、その針を半ば強引に進めたのは、絵美子かもしれない。
第四話 最悪 に続く