美咲が閉店の準備のために店先のランプを消そうと外に出ると、たったかと軽快な足取りでマグが帰ってきた。
「おかえり」
その言葉に呼応するようにマグが鳴いた直後、美咲は人影に気がついた。
「すみません、今日はもう閉店時間で……」
「すみません」
マグに導かれるようにしてやってきた青年は美咲と目が合うと反射的に謝った。青年、透は斜陽をそのまま背負ったような沈んだ表情を浮かべている。
「なんとなく、その猫が、その」
「マグが、なにかしましたか」
「……いえ。なんでもありません。すみません」
暗い様子のままの青年に、美咲は手をぽんと打った。
「よかったら、少し休んでいきます?」
「え?」
「お店は閉店なんですが、ちょっと協力者を探してて」
「協力者……?」
「はい!」
不可解な透と対照的に、美咲は花がぱあっと咲むような笑顔を浮かべた。
季節が確実に前に進んでいるのを、朋子は足元の冷えで実感した。ブランケットを二枚借りて、一枚を腰に巻いてもう一枚をひざ掛けにする。客席テーブルの上で、閉店後に朋子は勉強をしている。もうずっと授業には出ていないから、クラスメイトからは置いていかれているのだろうけれど、好きな英語は面白いくらいに参考書を撃破していける。その代わりというべきか、苦手意識も手伝って理数系科目がどうしても億劫になってしまう。ずいぶん前に買った「数ⅠA」の参考書は、まだ半分も解き終えていなかった。
寒かったら春が恋しくなるし、春になれば花粉を疎ましがるし、夏になれば暑さがしんどいと訴えるし、秋になったらなったで「寂しいね」なんていう。人間というのは本当に、ないものねだりな生き物だと朋子は思う。そのことを、雑談の中でなんとなく話したら、魔女にこう言われた。
「季節の移ろいに心が揺れることは人が『大切なもの』を忘れないために、とても重要なことなのよ」
朋子はシャープペンシルを持つ右手と参考書をめくる左手とに交互に息をかけて温めようとした。その様子を目にした美咲が「エアコン入れるね」と声をかけてくれたので、軽く頭を下げた。
ちらっとカウンターを見た。閉店後にそこに人が座るのはあまりないことだが、そのことが気になるのではなく、その男性がずっと俯いていることがやけに朋子は気にかかっていた。
それにしても、どうしても「 (x−2y)(3×2−4xy−2y2)」の展開ができない。1年生でとっくにみんなが解いてしまっているであろうものが、自分にはどうしても理解できないのだ。
(みんなにできることが、私にはできない)
わかってはいるのだけれど、どうしてもそのことが虚しくてたまらない。朋子は気持ちを切り替えようと、グラスの中の水を一口飲んだ。
「美咲ちゃん、今日はなんの試食?」
「ふっふっふ」
美咲が不敵に笑いながらキッチンからひょっこりと顔を出した。
「スコーンでーす。コトノハでハーブティー出すことになった記念」
「えっ。あの話、決まりなの?」
「マスター、ヨーコさんと飲みにいったでしょ。打合せをしにいったんだよ、きっと」
朋子はただでさえつぶらな瞳をぱちくりとさせた。
「そういうの、わかんないや……」
店内に生地の焼きあがる香ばしいかおりがしはじめる。美咲の手の中のボウルでは、スコーンにあわせるクリームが泡立て器でたてられていた。
「それだけでも先に舐めたいな」
朋子がそうこぼすと、美咲は「いやいや」とボウルを引っ込めた。
「ぜひ一緒に食べてほしいから、もう少し待っててね」
「はーい」
「『協力者』っていうのはですね、試食の協力です」
美咲に声をかけられて、透はハッとして顔を上げた。
「もう少しだけ、お時間ください。あ、お時間は、大丈夫ですか?」
「予定……は、特に、ありません、ので……」
透はぽつりぽつりと言葉を発した。
「よかった。じゃあ今日は二名から感想が聞けるんだね、ラッキー!」
マグは美咲の笑顔をじっと見てから、クッションの上で顔を洗い出した。
「正直にいうね、自信はないんだ。特にプレーンは素材と技量がそのまま味になっちゃうからさ」
「プレーンとチョコチップ入りとブルーベリーかあ。ああーどれを試食したらいいかな、迷うな」
「朋子ちゃん、スイーツなだけにあまいぜ。ぜーんぶ頼むよ」
「本当!」
楽しげに盛り上がる美咲と朋子。それに対して透はどこか切迫したような顔で二人にこう声をかけた。
「あの、ごめんなさい」
「はい。もう焼きあがります!」
「いいえ、そうじゃなくて」
「どうしました?」
「……いいでしょうか……」
「なにがですか?」
「お手洗い、お借りしていいでしょうか……?」
一瞬、キョトンとする美咲。青年は、まるで授業中に退席の許可を求める学生のように右手をおずおずと上げていたのだ。
それでも、初めての場所だから遠慮したのだろうとだけ思い、美咲は「どうぞどうぞ」と返答をした。すると透は何度も「すみません」を連呼しながらトイレに駆け込んでいった。
「我慢してたのかな?」
朋子が首を傾げた。マグは大きなあくびをした。
美咲が新作スイーツの試作に挑んでいる間、神谷と魔女は商店街の一角にある居酒屋で日本酒を酌み交わしていた。
「ああ、日本酒はやっぱりいいわ」
「オーストリアにはなさそうだもんね」
「ニホンシュ、は実は向こうにもあるの。でも品種は少ない上にやたらと高くてね。ワインも好きだけど日本酒も味が恋しかったわ」
「ヨーコさん、かなりのザルとお見受けした」
「やだ、やめてよ。私、ワクよ」
ほろ酔いの神谷が大きな声で笑う。突然この二人が意気投合したのにはわけがあった。縁というのは目には見えないが、人と人とのつながりで可視化できる。神谷と魔女が同じ小学校の出身であることが分かった途端、神谷の中の警戒心はほろほろとほどかれていった。
「ええっ、ヨーコさん集田小出身なの? 何年度卒業?」
「おっと、レディに歳がばれる質問は厳禁! でもあれでしょ、校門の横に『猫のまどろみ』って像があるけど、どう見ても『タヌキ寝入り』にしか見えないアレがあるところ」
「そうそう。あれよく児童のラクガキのターゲットになってて」
「もしかしてマスターも描いたクチ?」
「俺はそんなことはしないよ。十円玉で少し造形を施したことはあったけど」
「悪ガキ!」
柱時計が夜の8時を報せる。三人の目の前にはからっぽになった皿だけが残されていた。
「あ、遅くなっちゃったね。家まで送ってくよ」
美咲はスコーンの試食でお腹がいっぱいになり満足そうな朋子にそういって帰宅の準備を促した。
「外はもうかなり寒いだろうね」
「風がなければ大丈夫だよ」
美咲は頷き、透にも声をかけた。
「ありがとうございました。『美味しい』って感想、とても嬉しかったです」
「いえ、こちらこそ……すみませんでした」
「え、なんで謝るんですか?」
「……すみません」
美咲がさらに声をかけるより早く、透は足早にコトノハをあとにしてしまった。
第四話 そういう立場 に続く